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「大坂の陣」をざっとおさらい
大坂夏の陣屏風
出典:六曲一双画・紙本金地著色 大坂城天守閣所蔵
「大坂の役」とも言う、
- (大坂)冬の陣
:1614年 - (大坂)夏の陣
:1615年
の2つの出来事を総称した戦い。
大御所・徳川家康と将軍・徳川秀忠軍が大坂城を攻め落とし豊臣家を滅ぼしたことにより、応仁の乱(1467年)以降続いた「戦国時代」に終止符を打つ形となった出来事とされています。
江戸幕府はこれを期に元号を「元和」と改め、天下の平定が完了した事を内外に宣言した。
(=元和偃武)
難攻不落の大坂城
織田信長の家臣として働いていた頃の幾多もの経験により、城攻めの戦い方に優れていたと同時に、築城技術も一級品だった豊臣秀吉。
その秀吉が建てた大坂城。
金屏風や金天井といった豪華絢爛なお城だった側面以上に、
- 立地
- 城構え
- 内堀内の面積
- 本丸以外の建物構造
- 堀周り
- 城下
などなど緻密に計算されて造られ、当時としては世界最大規模の広大さで難攻不落のお城とされ、大坂冬の陣では真田信繁(幸村)たちの奮闘もあって、徳川幕府軍の圧倒的兵力を持ってしてもなかなか大坂城は落ちない。
徳川家康が取った作戦
城の周り全方位を囲み、攻撃には最新鋭の砲台を使い、夜襲も辞さず徹底的に籠城する豊臣側を追い詰めていった家康率いる徳川幕府軍。
が、多すぎる兵力もあってか兵糧不足に悩まされることに。
そこで家康は、攻撃を三段階に分ける作戦に打って出ます。
一段階目:一度攻め込む
この時点で大坂城が落城するに越したことはないものの、真田信繁(幸村)らの奮闘や兵糧不足に陥り、大坂城を攻め落とすのは困難になる。
(=大坂冬の陣)
Wikipedia内Jmho氏より
二段階目:和議を結ぶ
そこで一旦豊臣側と和議を結び、攻城作戦は(ひとまず)終わりとするも、その和議の中に次の戦いを見越してさり気なく自分たちが戦いやすくなるような条件を盛り込んでいきます。
徳川幕府軍が先の戦いで悩まされたのが、大坂城をぐるりと囲んだ堀。
この大坂城の周りの外堀に加え、内堀まで埋めて本丸まで陸地続きにすることで、次の戦いの時に攻め込みやすくなるよう整備を敢行していきます。
Wikipedia内Jmho氏より
三段階目:再度攻める
その後、結んだ和議を反故にすべく豊臣側に無理難題を突きつけ、突き返されたところで再度戦いに。
(=大坂夏の陣)
堀埋め整備の効果は大きく、大坂城本丸を守る術がない豊臣側は敢え無く降伏。
難攻不落とされた大坂城を攻め落とし、徳川家康・秀忠の主眼であった豊臣家滅亡を果たし、以後統治国家の立国へ進んでいきます。
家康に大坂城の落とし方を教えたのは豊臣秀吉だった?!
家康が大坂城を落とすために取った三段階戦略。
実はこの発案者は豊臣秀吉だった、とのエピソードが。
大坂城完成自慢
豪華絢爛にして当時世界最大規模の難攻不落な要塞である大坂城が完成したのを喜んだ豊臣秀吉。
完成祝い等で訪れた諸大名に対して、秀吉自ら大坂城内を案内して回って、その凄さを見せつけていたご様子。
ある時、前田利家・蒲生氏郷・徳川家康が大坂城を訪れ、同じく秀吉が大坂城を案内して豪華絢爛ぶりや最先端技術を詰め込んだ防備システム等を3人に話していた時、

誰もこの城を落とせはせん!
とのこと。
それを聞いた家康

がしかし、殿下の優れた軍略を持ってすればいかがで?
これを聞いてちょっと目の色が変わった秀吉。

ここ(=大阪城)でもあっという間に落とすことができるわ。
と笑いながら話したそう。
さらに秀吉を持ち上げる家康は、

機嫌を良くした秀吉。笑いながら話を続け、

そしてすぐに和睦を結ぶ。
その和睦の中に堀を埋める条件をつける。
そうして堀を埋める際に城壁も壊してしまう。
それで本丸は丸裸。
そうして和議を反故にして再度攻め込めばあっという間に落城よ。
3人は声を詰まらせるほどに感服した模様。
時は経ち、大坂の陣で実際に家康が取った戦略は正に秀吉の話した策そのままという、ちょっと皮肉なエピソード。
余談として
派手好き、割りと浪費家、気分屋で感情優先な傾向だった秀吉に対して、勉強熱心の倹約家で感情を表に出すことは少なかったとされる家康。
対象的な人物像は家康が秀吉を反面教師としていた、と見る向きもあり、その家康が例え優れた落城策だったとは言え、秀吉の言ったことそのままに大坂城落城で軍を進めたかは疑問とする歴史家も。
攻城を逸る秀忠をたしなめていたのも、江戸から大坂までの行軍で疲労困憊だった秀忠軍を休めせるため?とする見方もあり、
秀吉を良く思ってなかった家康の性格上、出来得ることなら一回の攻城で大坂城を落としたかったところが能わず作戦を切り替えた、とする説を元に上記記事も書きました。
大坂の陣において、大坂城落城はあくまで目的遂行(豊臣家の滅亡)のための一手段であって、そのために自らの我(秀吉を超えたいと思う気持ちや真似をしたくないという思い)を抑えた辺りが、家康らしいと感じたためです。
さらに余談として
「大坂」が現在使われている「大阪」になったのは、明治維新後の新政府が大阪府を置いたことを期とされています。
それまでは「大坂」が一般的で、江戸時代中期頃からは「大阪」の文字も併用されていたとか。