試験にはちょっと出づらいし、おそらく仕事には役に立たないし、知ってても特に何かが変わるわけではないけど、いつかどこかで何かに役立つかもしれない息抜き専用雑学、
江戸幕府 第十一代将軍・徳川家斉編。
徳川家斉に関して分かってる性格、特徴、趣味、嗜好や女性関係にちょっとしたエピソードなどを雑学的プロフィールとして記載しております。
記事の中身をざっと見
徳川家斉の雑学的プロフィール
年代や数字に関して
- 年代や星座等は基本的に新暦換算で記載しております。
- 年数や年齢は代による暦の違いや数え年の違いから、出典により±1〜3年の誤差がある場合もございます。
人物
- 生誕:1773年11月18日生
旧暦:安永2年10月5日 - 星座:さそり座
- 身長:約156cm江戸時代の平均身長155〜160cm
家系
- 氏族:徳川将軍家
血筋:一橋家 - 幼名:豊千代
- 父親:徳川治済
- 母親:お富の方
将軍期間
- 就任時齢:15歳
- 在任期間:1787年〜1837年
- 在任年数:約50年
- 歴代順位:1位
参考 徳川将軍家 在任期間ランキングダレトク雑学トリビア
奥方
- 奥方数:17人?
- 正室:1人
- 側室:16人
一説には40人以上とも…
- 歴代奥方数:2位
参考 徳川将軍家 奥方数ランキングダレトク雑学トリビア
子ども
- 子宝数:53人以上
- 男の子:26人
- 女の子:27人
- 歴代子宝数:1位
参考 徳川将軍家 子宝数ランキングダレトク雑学トリビア
晩年
- 享年:67歳江戸時代の平均寿命45〜50歳
- 死因:胃腸炎、腹膜炎
- 歴代長寿ランク:3位
参考 徳川将軍家 長寿ランキングダレトク雑学トリビア
徳川家斉をざっとおさらい

徳川家斉 肖像画
出典:シーボルト著『NIPPON』
- 約50年の超長期政権
- 御三卿一橋家出身の初となる将軍御三卿
徳川家の分家となる
- 清水家
- 田安家
- 一橋家
- 寛政の改革
:主導は松平定信 - 朱子学を正学とした
「寛政異学の禁」
発布 - 大御所となった後も実権を握る
家斉将軍期の主な出来事
- 化政文化期
- 本居宣長著が完成古事記伝
:1798(寛政10)年 - 滝沢馬琴がを発表南総里見八犬伝
:1814(文化11)年 - 伊能忠敬の
『大日本沿海輿地全図』
が完成
:1821(文政4)年 - シーボルトが長崎に
「鳴滝塾」
を開く
:1824(文政7)年頃 - 葛飾北斎が
『富嶽三十六景』
を発表
:1829(文政12)年 - 歌川(安藤)広重が
『東海道五十三次』
を発表
:1832(天保3)年 - 天保の大飢饉
:1832(天保3)年〜
などなど
家斉将軍期の世界情勢
- ジョージ・ワシントンがアメリカ初代大統領に就任
:1775(安永4)年 - フランス革命が起こる
:1789(寛政元)年 - ナポレオンが皇帝に即位
:1804(文化元)年 - 物理学者・オームが
「オームの法則」
を発表
:1826(文政9)年
などなど
徳川家斉の性格、特徴、趣味、嗜好
- 在任期間、子宝数 歴代将軍No.1の2冠
- 父親には逆らえない
- けど我が強い
- 超絶倫
- あだ名:オットセイ将軍
- 大の酒好きで相当な酒豪
- 生姜好き
- 精力剤愛好家
- 権力好き
- 三国志好き
- 身体は頑丈で長生き
- 人に対しては温厚
などなど
徳川家斉の人物像
分かっているだけで、
- 息子:26人
- 娘 :27人
の計53人以上もの子どもを授かったとされる徳川家斉。

政務関連は松平定信に任せっきりだったり、当時一橋家当主だった父・徳川治済(「はるなり」とも)の言いなりだった模様。
その憂れいがあったためか、将軍期の後半以降は自ら権勢を振るい、大御所となった後も実権は握り続けることに。
権力や名声も割と固執するようになり、二代将軍・徳川秀忠以来となる徳川将軍家3人目で、

しております。
晩酌を毎晩欠かすことなく、

そうで、相当な酒豪だった模様。
生姜やチーズも大好きで、特に生姜は

とされていたことから毎日食べていたそう。
(偏頭痛薬との見方も)
精力剤のお気に入りは、徳川家康も愛好していたとされるオットセイのペ◯スを粉末にしたものでした。
そのため一部からは、

と呼ばれていたとか。
元来頑丈な身体のおかげか精力剤のおかげか、67歳まで生きたのは当時にすれば長生き。
また、子沢山だったことから祝賀や養育費などで幕府の財政は確実に圧迫されていくも、家斉自身

がありました。
そのためか、綱吉〜吉宗〜家治と続いていた庶民への締め付けも緩み、町人文化の代表ともされる
が一気に華ひらき、国学や蘭学なども大いに隆盛することとなりました。
徳川家斉の女性関係・色恋事情
目的遂行のためか?単に女好きか?
分かっているだけで53人もの子どもを遺した徳川家斉。
と同時に、御三卿一橋家初の将軍でもあったことから、絶倫だったのは、

で、

との見方も。
ただ、特に将軍期前半は政務そっちのけで子作りに励みすぎており、多い年で年間同時に3〜4人もの子どもを儲けていたご活躍ぶりは、

との意見も多め。
正室との婚姻前に…
通例、正室とは婚姻を結んでから夫婦の契を交わすのが一般的だったのに対して、

と婚姻前にもかかわらず手を出しているのが家斉流。
昼夜問わずお盛ん
家斉のお盛んぶりを描いた浮世絵
出典:国立国会図書館蔵
夜は

をしていたり、それだけでは満足できなかったか

お盛んぶりも記録されております。
好きもの認定?
産まれながらか精力剤や生姜のおかげか、身体がとても頑丈だった家斉。
ちょっとした病で倒れ命を落とすことも少なくなかった時代、特に病弱体質にある徳川家において家斉自身は

だったそうで、

との記録が。
ただ、別の史料には

と普段から薄着でいた理由が…。
やはり好きものであったご様子。
東京大学の赤門
現在もある東京大学の赤門。
元は、子どもが多すぎて娘の嫁ぎ先全部を把握しきれなかった家斉のために、

ことに由来しております。
そのため、当時の江戸には朱色の赤門が点在していました。
今日残っている東大の赤門は、徳川家斉の21女・溶姫の嫁ぎ先となった加賀藩・前田家の屋敷門でした。
徳川家斉の性格や人柄が垣間見れるエピソード
父・徳川治済には逆らえず、子どもを作ってばかりの絶倫将軍なイメージが先行がちながら、その性格は

とされる徳川家斉。
そんな家斉の性格や考え方などが垣間見れるエピソードをいくつかご紹介。
家斉流人心掌握術
中国の三国志が大好きで何度も読み返していたそうな家斉。
ある日、家臣を連れて散歩中に寄った茶屋で、

と一言。
家斉の発言を聞いて凍りつく家臣一同。
その様子を見て笑いながら、

とちょっとした自虐ネタを。
しかし、家臣は気を引き締める一因になったそう。
気持ちを汲める
ある時、家臣の1人が

春の方が飛鳥山の桜はたいそう美しいです。
と家斉に上申。
現:東京・北区にある飛鳥山公園
現在も桜の名所として残っております。
これを聞いた家斉、

だが、飛鳥山の桜は多くの庶民が楽しむところだ。
わしが行けば数日前から人の往来を禁じたりして、庶民の楽しみを奪う事になる
と言い、続けて

と付け加えております。
家斉の庶民を思いやる気持ちに上申した家臣も大層恐れ入ったそう。
- 隅田川(の桜)
:東京・足立区〜墨田区辺り - 御殿山
:東京・品川区
ともに桜の名所
家斉、菊を愛でる
ある時家臣に、

みんな自分でつくった菊を持ってこい。
と一年程前に渡しておいた菊の根の話を持ち出した家斉。
後日、豪華絢爛たる菊が続々と運び込まれる中、誰がみてもショボい菊が1輪。
その並んだ菊を見て家斉が一言。

正直なのはお前だけだ。
お前の菊を見ながら呑むぞ。
と、そのショボい菊と持ってきた家臣を愛でたそう。
ちなみに、その家臣が後に天保の改革主導者となる水野忠邦でした。
父・徳川治済に対する思い
徳川家斉の将軍就任には父・徳川治済が表向きにも裏向きにも動いていたことを知ってか、

とされる家斉。
家斉将軍期に父・治済が権力を欲しいままにしていたときも静観の構えを貫いており、顔色を伺う存在だったそう。
そんな家斉の父・治済に対する思いが伺えるエピーソードを最後に3つほど。
自分の誕生日
ある時家臣が、

と言いまわっているの見た家斉。
そんな姿を見て、

と語ったそう。
家斉の親を敬う気持ちが伺えるエピソード。
決して逆らわず
大の酒好きでかなりの酒豪だったとされる家斉。
決して飲んでも飲まれなかったそうで、年々酒の量は増えていっていたとか。
そんな家斉を見た父・治済がある時、

と直接忠告しました。
以後、家斉は

そう。
それからちょっと時が過ぎたある冬の鷹狩でのこと。
あまりの寒さから全員が酒を飲み暖を取ろうとするも、寒さは和らがず…。
どんどんと飲む酒の量が増える面々。
そんな中、ある家臣が

と家斉に酒を勧めるも、

と冗談を言ってかわすばかりで、結局3杯以上は決して飲まなかったそう。
家斉は何かを知っていた…?
初代・徳川家康の江戸幕府開闢以降100年以上経っていたためか、家康への信仰も強くはなかったとされる家斉。
家斉将軍期は約50年と超長期政権ながら、先祖への法要行事である日光社参は一度も行っておりません。
が、家斉にとって遠戚にあたり先代将軍・徳川家治の息子だった徳川家基の命日には、毎年欠かさず自ら参詣していたそう。
万が一家斉自身が参拝出来ない時には、家臣を代参させるほどのご執心ぶりでした。
十代将軍・徳川家治の長男で、幼少期よりとても聡明だったことから

と多くの家臣たちに目されていた人物。
将軍就任前に「家」の字を名前に賜るほど期待されておりましたが、18歳の若さで謎の死を遂げることに…。
徳川宗家の中で「家」の字を賜りながら唯一将軍になれなかったこともあり、
と言われております。

ばかりか、

と見られており、且つ直系の血縁関係にあるわけでもない中でこのご執心ぶりは異例中の異例。
ただ、

と家斉自身が疑っていた可能性がある
と指摘する歴史家も多数。
家斉にとって、
- 父・治済はそうゆうことをし得る人物と見ていたこと
- 自分のために命を落としてしまった徳川家基への贖罪の意識
が垣間見える記録とされております。
備考と参照
- この記事は2018年までに分かっている史料等や諸記事を元に書かれております。
- 今後見つかるかもしれない史料等によっては、全く違う内容になる可能性がある旨ご了承くださいませ。
徳川家斉の次の代・前の代の将軍
参考文献など
- 『徳川将軍列伝』
著・北島正元
出・秋田書店 - 『徳川将軍家十五代のカルテ』
著・篠田達明
出・新潮新書 - 『徳川名君名臣言行録』
著・岡谷繁実、安藤英男
出・新人物往来社 - 『将軍の私生活』
著・三田村鳶魚
出・グーテンベルク21 - 『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』
著・鈴木尚
著・東京大学出版会 - 『徳川将軍家墓碑総覧』
著・秋元茂陽
出・星雲社 - 『徳川十五代史』
著・内藤耻叟
出・新人物往来社 - 『上様出陣!―徳川家斉挽回伝』
著・牧秀彦
出・徳間文庫 - 『一九世紀前半の日本 -国民国家形成の前提-』
著・藤田覚
出・岩波書店 - 『近代日本の政治家』
著・岡義武
出・岩波現代文庫 - 『遊王徳川家斉』
著・岡崎守恭
出・文藝春秋 - 『家斉の料理番』
著・福原俊彦
出・宝島社
などなど他諸冊
徳川将軍家のご参考までに






