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徳川将軍家 全15人の性格や特徴などをまとめた簡易プロフィール

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葵の御紋

江戸幕府を約265年間継続させ日本史に一時代を築いた徳川将軍家。

有名だったり実はそこまで知らない?将軍様もいたり、そんな徳川将軍家全15人の性格、特徴、趣味、嗜好などを簡単にまとめた雑学的プロフィールを記載しております。

初代 徳川家康

徳川家康

徳川とくがわ家康いえやすの特徴

戦国三英傑のひとり

壮年期は割と短期

晩年は我慢の男

策士

勉強熱心

理論派

感情を表に出さないタイプ

敵味方問わず有能者好き

割と執念深く根に持つタイプ

武術(剣、砲、弓、馬など)の腕は一流

スポーツ万能

健康志向というかむしろ健康オタク

奥さんが20人以上

歴代将軍No.1

けっこう子沢山

など

徳川家康に関する蛇足的補足

本人が言ったか後の時代の創作か、いづれにしても家康の性格を詠んだとされる

徳川家康 徳川家康 鳴かぬなら、鳴くまでまとう、ホトトギス

は、

歴史家 歴史家 晩年の徳川家康の忍耐強い性格を的確に表現している言葉

と多くの歴史家が認めるところ。

幼少時代の人質生活にて忍耐を強いられたことや、生まれた時代が織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ秀吉ひでよりと被っていたこともあり、

徳川家康 徳川家康 大成為すには生きてこそ

の精神で常に準備をして自分の活躍機会をずっと伺っていたとされる徳川家康。

ですが、

書 若い頃は割と血気盛ん

で直感のままに行動した結果戦にて大敗するなど、割と猪突猛進な一面も。

ただ、

  • (幼少期から)洞察力に優れていた
  • 勉強熱心だった
  • 医学に精通していた
  • 女性好きで割と子だくさんだった

と様々な顔を伺わせるのも徳川家康ならでは。

女性に関しては綺麗な人や血筋や出身の良い女性よりも、割と性格重視で

  • 身分の低い女性
  • 未亡人
  • バツあり女性

がお好みだったご様子。

徳川家康の簡易プロフィール

徳川家康の色恋事情やエピソードの数々

ある時、女中たちから

女性 食事に出される漬物がしょっぱい

と苦言を受けた徳川家康。

徳川家康自ら給仕長を問い詰めると、その返答に笑って納得し

徳川家康 徳川家康 以後も変わらずこれまでと同じ(しょっぱい)漬物を出すように

と一言。

その理由を含め、下記にて色恋事情や徳川家康の性格が伺えるエピソードの数々を集約して記載しております。

第2代 徳川秀忠

徳川秀忠

徳川とくがわ秀忠ひでただの特徴

冷静沈着

理論派

温厚で生真面目

女性関係も割りと真面目

結構頑固

家臣に優しい

マッチョ体型

戦に関しては残念なエピソードを持つ御仁

割としたたか

武将としての評価は低い

為政者としての評価は高い

など

徳川秀忠に関する蛇足的補足

偉大な父で大御所となっていた徳川とくがわ家康いえやすがほぼほぼ政務的実権を握っており、

書 家臣もほぼほぼ家康公の言うことしか聞かなかった

との史料が多いことから、割りと無能扱いを受けがちな徳川秀忠。

しかし、将軍になってからは父・徳川家康へのあこがれや実直な性格から自分でも政務勉強を頑張っていたご様子。

また、徳川秀忠は幼少の頃に豊臣とよとみ秀吉ひでよしの元へ人質として送られた経緯があり、

書 豊臣秀吉から一字をとって、本人から直接「秀忠」の名を賜る

こととなりました。

が、徳川秀忠将軍期には自ら率先して豊臣家を潰そうとするなど割とドライな一面も。

会津藩主として、また第4代将軍 徳川とくがわ家綱いえつなの参与として名君の誉れ高い保科ほしな正之まさゆきは、秀忠の四男(隠し子扱い)で徳川家光と異母兄弟でしたが、秀忠は

徳川秀忠 徳川秀忠 最後まで実子としても将軍家の子としても扱わなかった

そう。

徳川秀忠の簡易プロフィール

徳川秀忠、父・徳川家康に怒られる…

真面目過ぎる性格からか、徳川秀忠が

  • 関ヶ原の戦い
  • 大阪の陣

と立て続けに父・徳川家康からものすごく怒られたちょっと健気な理由を含め、下記にて色恋事情や徳川秀忠の性格が伺えるエピソードの数々を集約して記載しております。

第3代 徳川家光

徳川家光

徳川とくがわ家光いえみつの特徴

「生まれながら将軍」発言

幼い頃から割りと病弱

でも結構やんちゃ

強気な性格

おじいちゃん(徳川家康)大好き

父・徳川秀忠、母・お江嫌い

乳母・春日局びいき

外出、夜遊び好き

もっぱら男好きで女装好き

壮年

政治には割りと無関心

中年

冷徹、策士的な一面も

後年

など

徳川家光に関する蛇足的補足

  • 参勤交代
  • 役職整備
  • 鎖国制度の樹立

などの歴史的施策から教科書にも載ることが多い徳川家光。

ただ、その多くは

歴史家 歴史家 先代で父の徳川秀忠や秀忠の家臣たちが基盤を作っていたもの

で、徳川家光自身政務に関してははあまり興味がなかったご様子。(前半)

また、若い頃は割りと病弱で床に臥せることも少なくないながら、結構なやんちゃで

徳川家光 徳川家光 夜遊びや外出が大好き

なエピソードが多々残っております。

祖父・徳川家康をとても尊敬しており、天海てんかい主導の元で

徳川家光 徳川家光 日光東照宮を(現在見られる)豪勢なものに改築させた

のも徳川家光が将軍だった時のことでした。

戦の実体験話も大好きで、武勇残る戦国武将たちを江戸城に招き実際の合戦話を好んで聞いていたそう。

中でも伊達だて政宗まさむねのことは大変深く尊敬しており、

徳川家光 徳川家光 親父殿

と呼ぶなど、外様大名としては異例ともいえる高待遇で接しております。

乳母である春日局かすが の つぼねの言うことは

家臣 家臣 何でも結構ちゃんと聞いていた

感があり、春日局の指南もあって将軍期の後半は政務にも身を入れて取り組むようになったご様子。

徳川家光の簡易プロフィール

徳川家光の超強気発言

徳川家光 徳川家光 私は生まれながらの将軍だ!

などの超強気発言を連発したかと思えば、若い頃から男色気質で結構嫉妬深かった徳川家光の色恋事情や性格が伺えるエピソードの数々を集約して下記にて記載しております。

第4代 徳川家綱

徳川家綱

徳川とくがわ家綱いえつなの特徴

あだ名然様さようせい様

割と内向的

温厚

脳に患いがあり身体が丈夫ではなかった?

家臣に恵まれる

絵画や釣りが趣味

人情味ある優しさを持つ御仁

など

徳川家綱に関する蛇足的補足

先代で父・徳川家光が急逝してしまったこともあり、徳川家綱が征夷大将軍を継いだのはわずか11歳の時でした。

若くして脳の病気を患ったためか、従兄弟の伯父さんである保科正之を始めとした重臣たちが政を執り行い、徳川家綱自身は

徳川家綱 徳川家綱 然様さようせい

が決まり文句の然様せい様とあだ名されていたとか。

然様せい

そのようにして

の意味で「左様せい」と書く場合もあります。

しかし、

  • 家臣のミスを庇う
  • 明暦の大火の復興に率先して取り組む

など人情味溢れる一面も。

明暦の大火を経験したその教訓から、東京にある両国橋をほぼ現在の広さに作り変えさせたのは徳川家綱でした。

徳川家康の簡易プロフィール

徳川家綱の人情味溢れるエピソード

歴史家 歴史家 父・徳川家光とは真逆の性格だった?

とされる徳川家綱の人情味溢れるお吸い物エピソードをはじめ、家綱画伯作品も下記にて掲載しております。

第5代 徳川綱吉

徳川綱吉

徳川とくがわ綱吉つなよしの特徴

幼少期より聡明

相当な勉強家

戦、争いごと嫌い

有言実行タイプ

ちょっと偏屈で癇癪持ち

説明下手

あだ名犬公方

他人の気持ちを推し量れない

身長コンプレックス

能が大好きで芸術にも明るかった

女性関係、男性関係も明るかった

など

徳川綱吉に関する蛇足的補足

徳川綱吉寄りの史料の中には

書 大男

との記述があるものの、実際は130cmに満たず結構な身長コンプレックス持ちだったとか。

部類の勉強熱心で、

  • 政治
  • 経済
  • 文化
  • 宗教

など多方面に明るかった模様。

が故、自分の考えに固執する傾向もあり、結構意固地な部分も。

時代劇ドラマ『水戸黄門』のモデル徳川とくがわ光圀みつくにとは特に仲が悪く、徳川光國が編纂させた『大日本史』の中で徳川綱吉は結構ボロカスにこき下ろされています。

また、日本史史上世紀の悪法と揶揄される

高札板 生類憐れみの令

を発したことから

  • 犬公方
  • お犬様

とあだ名されたり割りと悪評高い将軍とされる傾向があります。

…が、

  • 当時まだ残っていた斬り捨て御免や捨て子の風潮改革人徳を重んじる心社会福祉政策
  • 軽んじられていた動物の救済動物愛護の精神

など庶民の意識改革を行った実績から

歴史家 歴史家 将軍としての実力は徳川将軍全15代の中でもトップクラスだった

と見る歴史家も多数。

ただ、

侍 各政策の進め方が強引で、説明もろくにせず何かと頭ごなし

な感じだったことから、庶民から不人気だったのも確か。

とは別に、側室や子どもは多くはないものの

書 女性関係は事乍ことながら、男性関係も非常にお盛んだった

といろんな史記にばっちり記されており、歴代全将軍きっての両刀使いだったご様子。

徳川綱吉の簡易プロフィール

徳川綱吉の色恋事情やエピソードの数々

「生類憐れみの令」だけじゃない徳川綱吉のちょっと過激な色恋事情を含めたエピソードなど、教科書に載せるにははばかられる内容を色濃く掲載中。

第6代 徳川家宣

徳川家宣

徳川とくがわ家宣いえのぶの特徴

イケメンなナイスミドル

温厚

真面目

勉強熱心

慈悲深い

謙虚

庶民からの好感度、人気度高い

能楽好き

など

徳川家宣に関する蛇足的補足

先代・徳川綱吉が急逝したことで、綱吉と敵対していた徳川光圀の強いバックアップの元、50代手前で将軍に就任した徳川家宣。

同郷の甲府人

間部まなべ詮房あきふさ

新井あらい白石はくせき

らが登場するのも徳川家宣将軍期のことで、新井白石いわく

新井白石 新井白石 君主でこれほどまでに学問に精通している方は、日本や中国などどこを見渡してもいない

ほど勉学熱心だったご様子。

また、徳川綱吉は割りと何事も

徳川綱吉 徳川綱吉 独断で決定する

傾向があったのに対して、徳川家宣は

歴史家 歴史家 有能な人材を適所に配置し、各分野の知識人登用による一致団結政治を行う

など、綱吉将軍期とは真逆に近い政治方針を採用しております。

徳川綱吉将軍期の、特に後半は庶民からの不満も多かったことから徳川家宣が行った施政は世直し政治と称され、町民からも歓迎されておりました。

加えて

徳川家宣 徳川家宣 家宣公が温厚な性格で、ルックスも良かった

ことから庶民からの人気度は抜群だったそう。

しかし、流行病のインフルエンザに罹かかってしまい、就任からわずか3年ちょっとで無念の死を遂げることとなりました…。

徳川家宣の簡易プロフィール

徳川家宣の穏やかな人柄が分かるエピソード

クレーム対応の仕方や、勉学に取り組む姿勢からも伺える徳川家宣の性格などをエピソード含めて下記にてちょっと詳しく記載しております。

第7代 徳川家継

徳川家継

徳川とくがわ家継いえつぐの特徴

歴代最年少となる4歳で将軍に就任

朝廷に元服してもらった徳川家唯一の将軍

頭が良い

将来有望

病弱がち

心優しい

歴代最年少となる8歳で逝去

など

徳川家継に関する蛇足的補足

わずか4歳で将軍に就任し、8歳でこの世を去ることに…。

見た目、顔立ちは凛々しく聡明でもあり、多くの家臣たちからも

侍 将来有望

と目されておりました。

時に大人顔負けの振る舞いを見せ、

家臣 幼くして将軍としての立場をしっかりと理解していた

ご様子。

側用人の間部まなべ詮房あきふさを父のように慕い、

家臣 間部詮房が外出から戻って来たときには、家継様自ら出迎え、喜び抱き付く

ほどだったとか。

先代で父・徳川家宣に似て慈悲深く心優しい幼年だった徳川家継でしたが、未来ある名前とは裏腹に、あまりにも若すぎる早世となりました。。

徳川家継の簡易プロフィール

徳川家継の一挙手一投足に皆感涙

時に将軍としての振る舞いを見せるも、

家臣 家臣 普段は優しく、年齢相応のあどけなさも見せる

など、徳川家継に家臣たちが心打たれるエピソードをいくつか記載しております。

第8代 徳川吉宗

徳川吉宗

徳川とくがわ吉宗よしむねの特徴

時代劇『暴れん坊将軍』のモデル

歴代将軍の中でもトップクラスの名君、との呼び声多い御仁

若い頃はやんちゃな肉食系

超徹底的な倹約家

あだ名米将軍

自己プロディース力が高い

切れ者

庶民からの期待度大

前期

庶民からはあまり人気ない

後期

など

徳川吉宗に関する蛇足的補足

幼いころは

家臣 家臣 やんちゃで手もつけられないほど本当に暴れん坊だった

とされる徳川吉宗。

紀州藩にいた頃は女性関係もなかなかな暴れん坊(棒?)との記録も。

歴代将軍の施政をしっかり学び、良いことは進め、悪しきは排除する方針。

第5代将軍 徳川綱吉好きで、徳川吉宗自身が紀州藩主になる際に

徳川吉宗 徳川吉宗 綱吉様にあやかりたい

との思いから、一字をとって吉宗と改名しております。

が、綱吉将軍期に廃止した鷹狩や武芸等を吉宗将軍期に復活させており、

家臣 家臣 吉宗公自身も鷹狩や武芸に励み、腕も相当良かった

そうで、自分の判断尺度がきちんとあったご様子。

目安箱を設けるなど庶民の立場に寄り添おうとするも、食事内容などの倹約を半強制的に促したため庶民からの人気は低め。

また、徹底した倹約の1つとして自ら大奥の人員削減も行っており、その際に美女をことごとく解雇しております。

表向きの理由は

徳川吉宗 徳川吉宗 美女はどこ行っても得するし、働き口も良き縁談もあるだろう

とするも、

徳川吉宗 徳川吉宗 美女は金がかかる

からと後日、大御所時代に本音をぽろり。

紀州藩主と将軍それぞれの就任に際し、

侍 本来は吉宗ではなく、他に多くの有力候補者がいた

にもかかわらず、超棚ボタ的幸運から就任していることから

歴史家 歴史家 徳川吉宗かその側近が暗殺を企て実行したことで権力の座に登りつめたのでは?

とする陰謀説も存在しております。

徳川吉宗の簡易プロフィール

徳川吉宗のエピソード選や陰謀説を考察

研究家 研究家 紀州藩主就任時、将軍就任時になぜか徳川吉宗の親族が次々と亡くなってしまう

ことによる徳川吉宗陰謀説の他、やんちゃで肉食系な一面なども他エピソードと合わせて記載しております。

第9代 徳川家重

徳川家重

徳川とくがわ家重いえしげの特徴

脳性麻痺からくる言語障害あり

大奥が自分の部屋的感覚

極力表に出ない派

諸々大岡おおおか忠光ただみつ頼り

政務は田沼たぬま意次おきつぐ頼り

スカウト(人事)能力高め

脳麻痺、言語、頻尿等何かと患いが多い

酒癖が悪い

実は女性?説がある将軍

など

徳川家重に関する蛇足的補足

幼少の頃より大奥に入り浸り

家臣 家臣 (家重公は)酒ばかり飲んでいた

そうで、若くして健康を患い脳性麻痺を発症してしまうことに…。

その影響から徳川家重には

歴史家 歴史家 言語障害があった

と考えられており、極度の歯ぎしり癖もあった模様。

そのため家臣の大岡忠光しか徳川家重の言葉をまともに理解出来なかったとか。

とは別に、徳川家重自身が結構な道楽者だったことから、先代で父の徳川吉宗も頭を悩ませていたそう。

徳川家公式記録となる『徳川実紀』にも徳川家重のことはあまりよく書かれていないせいか、肖像画の顔も歪んだように描かれおります。

が、別の肖像画も見つかっており

歴史家 歴史家 本当の徳川家重はもっと整った顔だったのでは?

とする見方もあります。

言語障害や歯ぎしり癖からか、家臣の前にもあまり積極的に出たがらない徳川家重ですが、知脳は高く家臣を登用するにあたり人材登用には優れた手腕を発揮しております。

徳川家重の簡易プロフィール

徳川家重女性説

徳川将軍家の中で唯一女性説がある徳川家重。

その理由を特徴や遺骨などの観点から、大きく5つに分けてこちらにまとめてみました。

第10代 徳川家治

徳川家治

徳川とくがわ家治いえはるの特徴

幼き頃より天才

学問に武芸など何やっても才能あり

祖父・徳川吉宗から寵愛を受ける

おじいちゃん(吉宗)子

愛妻家

自分で攻め手を編み出すほどの将棋好き

囲碁も好き

温厚

ビタミン不足?からくる無気力感

中期以降

など

徳川家治に関する蛇足的補足

幼き頃より聡明で祖父・徳川吉宗の寵愛を一身に受けて育った徳川家治。

帝王学をはじめとした政治等の理解も早く、

  • 剣術
  • 槍術
  • 銃術

などの武術もトップクラス。

だけでなく

  • 絵画

などの芸術方面も素晴らしい才能の持ち主で、正に天才

おじいちゃん(=吉宗)子だったためか、徳川吉宗の死後は政務に無関心になっていき、だんだんと趣味に走りだす傾向に。

徳川家治の息子である徳川とくがわ家基いえもとの急死後は完全に政意を喪失してしまったご様子。。

それ故、本人のポテンシャルとは別に将軍としては無能の扱いを受けることが多い御仁。

ただ趣味の実力は相当なもので、特に将棋は自分で棋譜を署すほど没頭しており、現代の専門家から見ても

専門家 専門家 非常に筋の良い棋風で、現在で置き換えるとアマチュア高段者級の強さ

とのお墨付きも。

加えて強烈な愛妻家

当時のご時世では珍しかった正室一筋で、後継者問題から渋々側室を持たされることになるも、側室との間に産まれた子は正室と育てる寵愛ぶり。

しかし、お世継ぎと目された2人の男子ともに早世してしまい、後継者問題には徳川家治やその周囲を含めて最後まで苦労しております。

また、田沼たぬま意次おきつぐ推薦の医師が処方した薬を飲んだ直後に徳川家治が危篤になったことから、

侍 田沼意次による暗殺では?

との陰謀説が当時から根強く残っております。

徳川家治の簡易プロフィール

徳川家治の心優しいエピソード

  • 明け方のトイレ
  • ため息を付く家臣に対してとった家治の行動

など、愛妻家で家臣思いな徳川家治の心優しいエピソード選を下記にて紹介しております。

第11代 徳川家斉

徳川家斉

徳川とくがわ家斉いえなりの特徴

超絶倫

分かっているだけで子どもが53人以上

変態的性癖あり

精力剤愛好家

身体は頑丈で長生き

我が強い

人に対しては温厚

父・徳川とくがわ治済はるさだのいいなり

前期

自ら執政を行い大御所時代まで権力握る

後期

など

徳川家斉に関する蛇足的補足

分かっているだけで

26

27

の計53人以上もの子を授かった徳川家斉。

徳川家斉 徳川家斉 子作り以外は他人任せ

が将軍就任前半期のモットー。

とされるものの、絶倫だったのは

歴史家 歴史家 自らの出自である一橋徳川家の血筋を各方面に反映させることが目的で、父親からのプレッシャーがすごかった

との見方も。

単なる女好きだったか、目的遂行のためだったか、はたまたその両方だったのかは意見の分かれるところ。

現在もある東京大学の

赤門 赤門

旧加賀屋敷御守殿門

は、

歴史家 歴史家 徳川家斉が子沢山で、娘も多かったことに由来

して作られております。

また、

徳川家斉 徳川家斉 生姜、チーズが大好き

で特に生姜は毎日欠かすことなく食べていたそう。

精力剤も愛用しており、中でも特にお気に入りだったのは

徳川家斉 徳川家斉 オットセイの局部を粉末状に細かくしたもの

だったとか。

元来丈夫な身体のおかげか精力剤のおかげか、享年67歳は当時にすれば長生きをしております。

江戸時代の平均寿命

45〜50歳

徳川家斉の簡易プロフィール

徳川家斉流 人心掌握術

中国の三国志が好きで愛読書としていた徳川家斉。

ある時家臣を連れて寄った茶屋で

徳川家斉 徳川家斉 余はどうして孔明のような部下に恵まれないのだろうなぁ…

と一言。

それを聞いた家臣たちは…など、東大の赤門の由来となったエピソードも交えてご紹介しております。

第12代 徳川家慶

徳川家慶

徳川とくがわ家慶いえよしの特徴

なかなかの絶倫

子どもは27人以上

20歳以上になった子どもは1人だけ…

後の第13代将軍 徳川とくがわ家定いえさだ

父・徳川家斉の傀儡

父・徳川家斉嫌い

あだ名:そうせい様

父亡き後は政治手腕をちょっと発揮

など

徳川家慶に関する蛇足的補足

徳川家慶が将軍に就任しても、大御所となっていた父・徳川家斉が権力を振るっていたため、はじめはお飾り的な存在でした。

そのため自分に決定権がないのを認識していて、何事も

徳川家慶 徳川家慶 そうせい

と言うことから、多くの家臣たちから

侍 そうせい様

とあだ名されてたそう。

そのため政務には無関心で趣味に没頭していたことなどから割とダメ将軍とみなされる傾向があります…。

父・徳川家斉と考え方や宗教観が違ったりで不仲だったとされておりますが、

  • 子だくさんなとこ
  • 生姜好きなとこ
  • 割と長生きなとこ

は割と父親似。

徳川家斉亡き後は水野みずの忠邦ただくにであったり、まだ若かった阿部あべ正弘まさひろなどを登用したりと、

徳川家慶 徳川家慶 自ら考える世直しを断行したり、損切りの早さをみせる

など、人事能力の高さや指導力を発揮しております。

徳川家慶の簡易プロフィール

徳川家慶の女性に対する接し方

父・徳川家斉とは違う女性への接し方や生姜好きエピソードなどを含め、下記にて徳川家慶の性格が伺えるエピソード選を集約して下記にて記載しております。

第13代 徳川家定

徳川家定

徳川とくがわ家定いえさだの特徴

徳川家慶の子で唯一20歳以上になった子

病弱体質

脳性麻痺?

お菓子作り好き

ふかしイモ大好き

癇癪持ち

人前嫌い

結構奇行が目立つ御仁

実は聡明だった?

など

徳川家定に関する蛇足的補足

黒船来航、先代・徳川家慶の急逝など慌ただしい中で将軍に就任した徳川家定。

しかし、

家臣 家臣 元々病弱で脳性麻痺からくる言動の不安定さが散見された

ことなどから後継問題が就任時早々から囁かれており、つなぎ的立場な将軍とみなされておりました。

肖像画には描かれていないものの、

徳川家定 徳川家定 幼少時に患った天然痘の影響で顔にあざが残っていた

ことを徳川家定自身が気にしてか、

家臣 家臣 人前嫌いの出不精だった

そう。

また、政務よりお菓子を好み

巻物 重臣たちが激務な中でも、家定公はカステラやふかし芋を自ら作って振舞っていた

などの奇行?が割と多く史料にも記載されており、家臣からは

松平春嶽 松平春嶽 イモ公方

と揶揄されておりました。

ですが、当時は暗殺や毒殺による陰険な実権争いも激しくなっており、

歴史家 歴史家 将軍や将軍候補者などもその対象に含まれていた

ことから、実は徳川家定自身はしっかりしていて猜疑心から自分で調理を覚えたり、あえて奇行を繰り返すことで価値なしと周りに思わせることで自らの命を守っていたとする説もあります。

徳川家定の死因には

  • 脳性障害
  • 流行り病
  • コレラ
  • かっけ

など諸説あり毒殺された疑いもあります。

徳川家定の簡易プロフィール

徳川家定の奇行は演技だった?

徳川家定に謁見したことのあるタウンゼント・ハリス米領事館や長崎奉行の朝比奈あさひな昌広まさひろは、徳川家定のことをどう見ていたのか?

本人たちが残した言葉と合わせて下記にてご紹介しております。

第14代 徳川家茂

徳川家茂

徳川とくがわ家茂いえもちの特徴

聡明

見た目良し

頭も良い

優しくて気が利くし機転も利く

割と病弱

大の甘党

思慮深い

責任感強い

思慮深い

家臣や有力者からの人望が厚い

辞意を朝廷に上申した唯一の将軍

政略結婚ながら愛妻家で一途

など

徳川家茂に関する蛇足的補足

動乱の江戸混迷期に幕臣たちの権力争いの末、13歳と若くして将軍職に就任した(担ぎあげられた)徳川家茂。

徳川家茂自身が

  • 聡明な風貌や出で立ち
  • 頭脳明晰
  • 思慮深い性格

だったこともあり、家臣や有力者からの人望がとても厚いものがありました。

特にかつ海舟かいしゅうとはお互いに信頼関係があり、徳川家茂が亡くなった際には

勝海舟 勝海舟 徳川家、今日滅ぶ

と自分の日記に記しております。

徳川家茂自身大の甘党で、

  • ようかん
  • 氷砂糖
  • 金平糖
  • カステラ
  • 懐中もなか

などを間食ばかりしていたせいか、見つかった徳川家茂の遺骸の歯は虫歯だらけだった模様。

朝廷との距離を縮めるための政略結婚でも、

家臣 家臣 妻・和宮かずのみやを一途に愛し、手紙や贈り物などの気配りも怠らず、気も利いた

そうで、側室も儲けず和宮ととても仲睦まじい様子だったとの記録が残っております。

若年ながら懸命に激動の時代に立ち向かおうとする徳川家茂を、

歴史家 歴史家 時代が違っていれば、高い英名を遺しただろう

と見る歴史家は多め。

徳川家茂の簡易プロフィール

徳川家茂の家臣を思うエピソード

ある老臣にいきなり頭から水をかけ、日頃仕える家臣たちからも

家臣 家臣 家茂様さしからぬ悪ふざけだ…

といぶかしがられた行動の奥に隠された徳川家茂の思慮深さなど、多くの人に愛された徳川家茂のエピソードを多めに記載しております。

第15代 徳川慶喜

徳川慶喜

徳川とくがわ慶喜よしのぶの特徴

文芸、武芸に精通

学がある

自分主義だけど評判を気にする

空気は読まない

家臣からも女性からも嫌われる

将軍として江戸城に入っていない唯一の御仁

超多趣味

など

徳川慶喜に関する蛇足的補足

徳川慶喜

将軍後見職として将軍就任以前から政務には積極的だった徳川慶喜。

割と我が強く、

侍 言うことがすぐ変わるし、行動と合致していない…

など、自ら多くの政敵を作り出してしまっていた模様。

将軍就任以降も京都で朝廷とのやり取りに奔走していたため、

歴史家 歴史家 将軍としては江戸城に入っていない唯一の御仁

となっております。

また、鳥羽・伏見の戦い時には家臣たちに

徳川慶喜 徳川慶喜 最後まで戦い抜け!

と自ら鼓舞するも、同日の夜には大阪城をこっそり抜け出し江戸に帰還したことで

侍 自己保身に長けた臆病者

とする見方と、大政奉還時や江戸城無血開城を実現させたのは、

坂本龍馬 坂本龍馬 多くの人命に加え、列強諸国の侵略から日本を救った優れたリーダー

とする見方に分かれがち。

坂本さかもと龍馬りょうま渋沢しぶさわ栄一えいいちなどは後者。

徳川慶喜の言動にはいろんな解釈がされておりますが、

声 明治期以降の日本の礎を築いた重要人物のひとり

という意見では一致しております。

将軍職を離れた後の隠居生活時には

  • カメラ
  • 手裏剣
  • 弓道
  • 油絵
  • 狩猟
  • 打毬
  • 将棋
  • 刺繍
  • お菓子作り
  • 能楽
  • 魚釣り

と超多趣味

しかもそのほとんどがプロ級の実力だったそう。

中でも

専門家 専門家 手裏剣は日本でもトップクラス

と目されております。

徳川慶喜の簡易プロフィール

徳川慶喜の人物像

  • 嫌な奴か、天才肌か
  • 臆病者か、先見の明あるリーダーか

など各エピソードを交えて記載している他、超多趣味だったその一部の作品を下記にて紹介しております。

備考と参照

江戸時代の平均身長

155〜160cm

江戸時代の平均寿命

45〜50歳

掲載内容に関して

年代や星座等は基本的に新暦換算で記載しております。

年数や年齢は代による暦の違いや数え年の違いから、出典により±1〜3年の誤差がある場合もございます。

当記事は2022年末までに分かっている史料等や諸記事を元に記載しております。

今後見つかるかもしれない史料等によっては、全く違う内容になる可能性がある旨ご了承くださいませ。

参考文献など

※ 以下順不同敬称略

  • 『徳川将軍列伝』著:北島正元版:秋田書店,1989/12/1
  • 『徳川将軍家十五代のカルテ』著:篠田達明版:新潮新書,2005/5/16
  • 『徳川十五代史』著:内藤耻叟版:新人物往来社,1985/11/1
  • 『徳川名君名臣言行録』著:岡谷繁実、安藤英男版:新人物往来社,1981/1/1
  • 『将軍の私生活』著:三田村鳶魚版:グーテンベルク21,2016/1/15
  • 『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』著:鈴木尚版:東京大学出版会,1985/12/1
  • 『徳川将軍家墓碑総覧』著:秋元茂陽版:星雲社,2008/1/10

など他諸冊

徳川将軍家 全15人の色恋事情

当記事では納まりきらなかった徳川将軍家 全15人の色恋事情そっち系に関する各プロフィールは、こちらにご用意してございます。

強者多し!
葵の御紋 徳川将軍家 全15人のちょっとピンクな女性関係、色恋事情プロフィール

徳川将軍家のご参考までに

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