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徳川家慶の性格、色恋、人柄エピソード選などの雑学的プロフィール

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徳川家慶

江戸幕府第12代将軍徳川とくがわ家慶いえよしに関して分かっている

を中心に記載しております。

知っていても特に何かが変わるわけではない…けど、いつかどこかで何かに役立つかもしれない息抜き専用雑学としてご認識いただければ幸いです。

徳川家慶の性格や特徴

巻物

幼い頃から割りと病弱

将軍期のはじめは父であり先代徳川とくがわ家斉いえなりの傀儡

あだ名そうせい様

父が嫌い

父に似てなかなかの絶倫

27人の子を儲けるも20歳以上になった子は家定いえさだ1人だけ

倹約家

生姜好き

絵が上手い

損切りが早い

など

徳川家慶の人物像を深掘り

深掘り

徳川家慶が将軍に就任しても大御所となっていた先代で父でもある徳川とくがわ家斉いえなりが権力を振るっていたため、はじめはお飾り的な存在でした。

そのため自分に決定権がないことを認識しており、何事にも

徳川家慶 徳川家慶 そうせい

と言うことから、家臣たちからは

武士 そうせい様

とあだ名されていたそう。

父・徳川家斉と考え方や宗教観が違ったり、口もあまり利かなかったそうで

家臣 家臣 不仲だった

とされるものの、

  • 子だくさんなとこ
  • 生姜好きなとこ
  • 割と長生きなとこ

などは結構父親似。

徳川家慶将軍期の前半は父・徳川家斉が大御所として生きていたこともあり、自身は絵画などの趣味に没頭していたり割と政務に無関心。

しかし、徳川家斉の死後は水野みずの忠邦ただくにであったり、まだ若かった阿部あべ正弘まさひろなどを登用するなど、自ら考える世直しを断行。

加えて、

家臣 家臣 成果の挙がらない政策に関しては、徳川家慶公自ら損切りの早さをみせる

など、人事能力指導力を発揮しております。

…が、ペリー率いるアメリカの軍艦が浦賀に迫った黒船来航で、激動の世へと移り変わり指導力が求められる真っ只中に急逝してしまうこととなりました。

徳川家慶の女性関係 色恋事情

着物女性たちの花見

女性を大事にするタイプ

子どもの数だけを見れば歴代の徳川将軍の中でも2番目に多い徳川家慶。

先代であり父・徳川家斉が女性に手当たり次第的なのとはちょっと違い側室の人数は割りと少なく、且つ同じ側室との間に2〜4人の子どもを儲けていることから、

歴史家 歴史家 徳川家慶は女性を大事にしていた

と見る向きが多数。

徳川家慶の女性との向き合い方

子が多く生姜好きで割りと長生き、と父・徳川家斉と似ているところが多々ある徳川家慶。

ある史料によると、

書 徳川家斉は大奥を汎愛はんあいし、寵姫ちょうきの多くを貪った

意訳

徳川家斉は大奥の女性たちみんなを別け隔てなく可愛がり、たくさんの女性と関係をもった、的な意味

書 徳川家慶は鍾愛しょうあいし、時間をかけた

意訳

徳川家慶は特定の女性と関係を持ち、一定期間以上大切にしてかわいがった、的な意味

とあり、女性との接し方は父・徳川家斉とは違っていたご様子。

徳川家慶の性格や人柄が垣間見れるエピソード

なかなかな倹約家

書

先代将軍で父・徳川家斉とは

  • 子だくさんなとこ
  • 生姜好きなとこ
  • 割と長生きなとこ

などちょっと似ている部分があるものの、父・徳川家斉のことをあまり良く思っていなかったとされる徳川家慶。

徳川家慶 徳川家慶 宗教観や考え方が相容れぬ

ことが要因とされており、中でも決定的に違ったのがお金の使い方

徳川家斉が豪奢で享楽的だったのに対して、徳川家慶はなかなかの倹約家。

書 徳川家斉は、鷹狩や催事などでよく使用した浜御殿(現:浜離宮恩師庭園)の改築や維持費のため、お金を湯水のごとく使っていた

のに対して、徳川家慶将軍期に浜御殿の修繕を行おうとしたところ、

徳川家慶 徳川家慶 使用する材木の一本一本から徹底して節約するように

と直々にお達しを。

こうした徳川家慶の倹約ぶりは、後に豆腐の大きさまで制約していった天保の改革の主導者でもある水野忠邦の考えと合い通じるところが多かったそう。

生姜大好き

生姜

水野忠邦主導の元、天保の改革を断行していたある時のこと。

幕府内だけでなく庶民生活も対象となり、

  • 歌舞伎小屋の縮小、移転
  • 寄席の廃止
  • 食べ物の制約

などなど徹底した倹約が行われました。

そんなある日、膳で焼き魚の添え物として出されていた大好物の生姜が無いことに気付く家慶。

徳川家慶 徳川家慶 なぜ(生姜が)ないのか?

と家臣に聞くと、

奉公人 家臣 生姜も倹約の対象となり、今後膳には出せない

との旨を知るや顔を真っ赤にさせ、

徳川家慶 徳川家慶 生姜は倹約から外すように!

と水野忠邦に直接迫るほど大の生姜好きだったそう。

息子・徳川家定を可愛がる

徳川家定

徳川家定 肖像

27人の子を授かった徳川家慶でしたが、成人したのは後に第13代将軍となる徳川とくがわ家定いえさだだけでした。

その家定も幼い頃から割と病弱で脳障害?の傾向が見られたことから、熱心なリハビリを行って大事に育てていたそう。

血縁を大事にするご時世、将軍の子がその職を継ぐのが慣例とされる中、徳川家定を守るため?か将軍職の煩いから家定を遠ざけようと、

徳川家慶 徳川家慶 正室の甥にあたる一橋ひとつばし慶喜よしのぶを自身の後任に

と徳川家慶自ら推すほどだったとか。

結局は家臣たちの説得あって徳川家定が後任となることで了承するも、自分の息子を将軍にしたがらなかったのは歴代の徳川将軍の中でも

歴史家 歴史家 徳川家慶ただ一人

でした。

余談

子が相次いで亡くなってしまう原因

子育て

子に白粉を塗る様子

徳川家慶自身27人の子を授かるも、成人したのは後に第13代将軍となる徳川家定ただ一人。

先代で父・徳川家斉も53人以上の子を儲けてますが、元服したのは半数以下の約25人とちょっと異常なまでに高い死亡率…。

これは、

  • 重臣たちによる将軍後継を巡る権力争い
  • 大奥による派閥闘争

などから、

歴史家 歴史家 暗殺や毒殺が将軍自身や、その身辺にまで及んでいた

ことが原因の1つとされております。

また、科学的な見解では

医者 白粉おしろいが原因では?

とする説もあります。

将軍の子として産まれた場合、他の重臣たちに顔見せする会が度々催され

姫 その都度顔から胸の辺りまで白粉を塗りまくっていた

そう。

問題となるのがこの白粉の成分で、当時使われていた代表的なものが

  • 水銀

でした。

特に水銀は

医者 人体に極めて有毒

で、

医者 触れると皮膚からでも吸収されてしまい、その分人体に悪影響を及ぼす

とされております。

そのため、

医者 赤子のまだ間もない頃から、ある種の水銀中毒にさらされてる状態に近い

ことが高い死亡率の原因と考えらるようになってきております。

加えて化政文化期と象徴されるように町人文化が華やいだ時代、

町娘 女性の白粉化粧もだんだんと豪華なものになっていた

風潮は町人だけでなく大奥でも広まり、正室や側室だけでなく女中やほとんどの者が

女性 顔だけでなく、お腹の辺りまで白粉を塗りたくっていた

とか。

当然女性も水銀中毒になる傾向が高いものの、最も危険なのは母乳を飲む赤子

白粉を塗りたくった乳に直接口をつけて吸うことで、

医者 結果的に水銀や鉛を直接体内に摂り込んでしまっていることと同じ…

状態となっておりました。

医学的な知識に乏しかった江戸時代において、将軍の子として産まれた赤子に死亡率が多かったり病弱な子が目立つのは、このためだとも考えられております。

徳川家慶の雑学的プロフィール

徳川家慶

徳川家慶 肖像

人物

  • 生誕
  • 1793年6月22日
  • 旧暦:寛政5年5月14日
  • 星座
  • かに座
  • 身長
  • 約153cm

江戸時代の平均身長

155〜160cm

家系

  • 氏族
  • 徳川将軍家
  • 血筋:一橋家
  • 幼名
  • 敏次郎としじろう
  • 父親
  • 徳川とくがわ家斉いえなり
  • の次男
  • 母親
  • 香琳院こうりんいん

将軍期間

奥方

子ども

晩年

江戸時代の平均寿命

45〜50歳

徳川家慶将軍期の主な世情

徳川家慶将軍期の主な施策

大御所時代大御所となっていた父・徳川家斉が実権を握る

徳川家慶自体は権力弱め

人材登用に優れる

など

国内の主な出来事

モリソン号事件1837(天保8)年

緒方おがた洪庵こうあんが大阪に
適塾を開く。1838(天保9)年

蛮社の獄1839(天保)年

天保の改革主導は水野みずの忠邦ただくに1841(天保12)年〜

ペリーが浦賀に来航1853(嘉永6)年

など

徳川家慶将軍期の世界情勢

中国で
アヘン戦争が勃発1840(天保11)年

K・マルクスとF・エンゲルスによる共著
共産党宣言が発表される1848(嘉永元)年

中国で
太平天国の乱が勃発1851(嘉永4)年

など

徳川家慶の次代将軍、先代将軍

当記事の参照や備考

徳川記念財団

国立国会図書館

一部個別に記載

掲載内容に関して

年代や星座等は基本的に新暦換算で記載しております。

年数や年齢は代による暦の違いや数え年の違いから、出典により±1〜3年の誤差がある場合もございます。

掲載画像はあくまで参考イメージとしてご覧くださいませ。

当記事は2022年末までに分かっている史料等や諸記事を元に記載しております。

今後見つかるかもしれない史料等によっては、全く違う内容になる可能性がある旨ご了承くださいませ。

参考文献など

※ 以下順不同敬称略

  • 『徳川将軍列伝』著:北島正元版:秋田書店,1989/12/1
  • 『徳川将軍家十五代のカルテ』著:篠田達明版:新潮新書,2005/5/16
  • 『徳川十五代史』著:内藤耻叟版:新人物往来社,1985/11/1
  • 『徳川名君名臣言行録』著:岡谷繁実、安藤英男版:新人物往来社,1981/1/1
  • 『将軍の私生活』著:三田村鳶魚版:グーテンベルク21,2016/1/15
  • 『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』著:鈴木尚版:東京大学出版会,1985/12/1
  • 『徳川将軍家墓碑総覧』著:秋元茂陽版:星雲社,2008/1/10
  • 『徳川家慶、推参』著:千野隆司版:ハルキ文庫,2013/2/15
  • 『家慶の一歩』著:千野隆司版:角川春樹事務所,2014/11/15
  • 『江戸城・大奥の秘密』著:安藤優一郎版:文春新書,2007/6/21

など他諸冊

徳川将軍家のご参考までに

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