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徳川家定の性格、特徴、趣味、嗜好や女性関係などの雑学的プロフィール

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徳川家定

試験にはちょっと出づらいし、おそらく仕事には役に立たないし、知ってても特に何かが変わるわけではないけど、いつかどこかで何かに役立つかもしれない息抜き専用雑学、

江戸幕府 第十三代将軍・徳川家定いえさだ編。

徳川家定に関して分かってる性格、特徴、趣味、嗜好や女性関係にちょっとしたエピソードなどを雑学的プロフィールとして記載しております。

徳川家定の雑学的プロフィール

年代や数字に関して

  • 年代や星座等は基本的に新暦換算で記載しております。
  • 年数や年齢は代による暦の違いや数え年の違いから、出典により±1〜3年の誤差がある場合もございます。

徳川家定

人物

  • 生誕:1824年5月6日生
    旧暦:文政7年4月8日
  • 星座:おうし座
  • 身長:約150cm
    江戸時代の平均身長
    155〜160cm

家系

  • 氏族:徳川将軍家
    血筋:一橋家
  • 幼名:政之助
    家祥いえさち → 家定
  • 父親:徳川家慶(の四男)
  • 母親:本寿院

将軍期間

奥方

子ども

  • 子宝数:0人

晩年

徳川家定をざっとおさらい

徳川家定

徳川家定 肖像画

出典:徳川記念財団

  • 幕府の弱体化が顕著に
  • 各藩の個別の力が強まる
  • 執政は井伊直弼、阿部正弘らが主導
  • 将軍継嗣問題の勃発

などなど

家定将軍期の主な出来事

  • 書状
    日米和親条約
    が締結
    1854(嘉永7)年
  • 吉田松陰が現在の山口県萩市で
    寺社
    松下村塾
    を開塾
    1857(安政4)年
  • 書状
    日米修好通商条約
    が調印される
    1858(安政5)年
  • 安政の大獄
    1858(安政5)年〜

などなど

家定将軍期の世界情勢

  • クリミア戦争
    が勃発
    1853(嘉永6)年
  • アロー号事件
    (アロー戦争)
    が起こる
    1856(安政3)年
  • セポイの反乱
    (インド大反乱)
    が起こる
    1857(安政4)年〜

などなど

徳川家定の性格、特徴、趣味、嗜好

文書

  • 徳川家慶の子で唯一20歳以上になった子
  • 病弱体質
  • 脳性麻痺?からくる痙攣の持病あり
  • だからか数々の奇行あり
  • お菓子作り好き
  • ふかし芋大好き
  • あだ名:イモ公方
  • 人前嫌い
  • 癇癪持ち
  • 勉強は割と熱心

などなど

徳川家定の人物像

徳川家定

黒船来航直後に先代である父・徳川家慶が亡くなり、幕府内でも困窮を極めた時期に将軍就任をした徳川家定。

ですが、

歴史家
元来病弱で、脳性麻痺?からくる言動の不安定さや突飛な行動が散見

していたことから、将軍就任時から後継問題が囁かれ始めていた模様。

加えて、肖像画には描かれてないものの、幼少時に患った天然痘の影響で

武士
顔にあざがあった

とされ、これが原因で人前には滅多に姿を見せなかったそう。

そのため、施政などは

  • 阿部正弘
  • 堀田正睦
  • 井伊直弼

の面々が次々と主導していき、徳川家定の

歴史家
歴史家
将軍としての功績はほぼない

状態に…。

家定自身は

徳川家定
徳川家定
お菓子作りが趣味

で、苛烈な激務に追われた重臣たちをよそにふかし芋やカステラなどを作っては重臣立ちにも振る舞っていたご様子。

そのため家臣からは

松平慶永(春嶽)
松平春嶽
イモ公方

と皮肉のこもった揶揄をされるはめに。。

また、死因に関しては

  • 脳性障害説
  • 流行り病説
  • かっけの疑い

など諸説様々で、

歴史家
歴史家
毒殺された可能性もある

との見方もされております。

徳川家定の女性関係・色恋事情

女性事情

幼い頃から病弱で将軍になってからはさらに体調を悪化させ、就任直後から継嗣問題が浮上していた徳川家定。

そんな家定に跡取りを期待する向きも薄かった中、女性側に不幸が続くことに…。

将軍就任以前から家定の正室だった鷹司任子(天親院)が他界。

その後継室として迎えられた一条秀子(澄心院)も結婚生活わずか半年あまりで他界してしまいます。

将軍就任後、再び継室が迎え入れられることになるも、結果として世継ぎには恵まれず先代・家慶の直系男子は途絶えることとなりました。

ちなみに、家定は江戸幕府期にて不幸にも

歴史家
歴史家
継室を2人迎えた唯一の将軍

となりました。

最後の継室は篤姫

天璋院 篤姫

継室として2人目、将軍の妻としては3人目に迎え入れられたのが後の天璋院となる篤姫でした。

薩摩藩出身で、

歴史家
時の薩摩藩主・島津斉彬なりあきらの策略から家定の妻として輿入れ

され、家定との結婚生活は1年半あまりで子も授からなかったものの、家定が篤姫にお手製のカステラを振る舞ったりと仲は良かったご様子。

家定が不審死で他界した後には

歴史家
歴史家
篤姫が手厚く唱題祈念を行う

など、お互いに慕い合っていたことが伺えるエピソードが残っています。

徳川家定の性格や人柄が垣間見れるエピソード

エピソード

奇行は演技?

徳川家定には、

幕臣との重要な会議中に、豆を煎てザルからザルに取り分けて喜んでいた
よく虫を追いかけては庭を走り回っていた

など、割と奇行が目立つ記録があり、加えて

歴史書
政治は一切しない
:『安政紀事』
松平慶永(春嶽)
松平春嶽
中の下の下のイモ公方
徳川斉昭
外国船事情のことなど何も知らないただのお坊ちゃま

などなど散々な言われようや書かれ方がされており、ダメ将軍で変人ぶりがクローズアップされがちながら…

当時は暗殺や毒殺による陰険な派閥・実権争いも激しくなっており、将軍や後継者までも暗殺対象となっていたことから、

家定自身はしっかりしていて、奇行を繰り返すことで敢えて

価値なし

と見せ、自らの命を守っていた

とする説も。

お菓子作りに励んだ理由

ふかし芋

膳に毒を盛られることも多かった時代、その対象は将軍や将軍候補者も例外ではなく

歴史家
家定自身も将軍就任以前に、誰かに毒を盛られた

ことがありました。

その体験もあり、家定は特に

歴史家
食事の膳やお菓子などの食べ物に対する猜疑心が強まっていた

と考えられております。

その思いは、先々代であり祖父の

徳川家斉の元を訪れた際に出された食事でさえ一切手をつけなかった

ほど強かったそう。

歴史家
官位が上の者からの食事提供でさえ断るのはよっぽどのこと

であり、身内でさえ信用していなかったことが伺えるエピソードが残っております。

そのため、

自ら調理を覚えるために、ふかし芋やカステラなどのお菓子作りに励んだのでは?

とする見方も割と多く見受けられます。

周りから見た徳川家定の印象

チャットバブル

直属の重臣たちからもその評価に関しては結構ひどい言われようの家定ですが、徳川家や縁石筋以外の人たちは家定のことをどう見ていたのか?

ここでは割と好意的な印象をお持ちだった2名をご紹介。

ハリスの場合

タウンゼント・ハリス

アメリカ大使だったタウンゼント・ハリス氏が徳川家定に謁見した際、

ちょっとした奇行が見受けられはしたものの、家定様は毅然とした態度でハリス氏を出迎えた

そう。

ハリス自身も家定のことを

T・ハリス
よく通る堂々とした気持ちのいい声で、悧発な印象を受けた

と好意的に捉えています。

元幕臣・朝比奈昌広の場合

「長崎港と出島」図
長崎の出島

元幕臣で長崎奉行も勤めた朝比奈昌広によると、

名君と言われた人たちからすれば劣りはするかもしれないが、諸大名だった者の中には家定公より劣る大名も多くいたはずである

と家定を擁護。

死因が特定出来ない不審死

ろうそく

十代将軍・徳川家斉が存命だったころから将軍周辺でも不審死が相次ぐようになっておりました。

徳川家定に関しても、その死因は

  • かっけの悪化
  • 流行り病だったコレラ
  • 病弱だったことからくる突然死

など諸説あり、また家定が将軍として唯一といってもいい仕事だった、

  • 後継に慶福よしとみ(後の家茂)を指名
  • 一橋派諸大名の一斉大処分

を行った翌日に不審死を遂げていることから、

歴史家
怨恨を持った一橋派が毒殺した可能性も捨てきれない…

との暗殺説も根強くあり、歴史家の間でも未だに意見は分かれております。

「家定」という名前

名刺

将軍就任時には

徳川家定
徳川家定
家祥いえさち

という名前だった家定。

ただ、

  • 四代将軍・家
    :糸編
  • 五代将軍・
    :糸編
  • 七代将軍・家
    :糸編
  • 十代将軍・家
    :さんずい

と、

名前の漢字に何かしらの偏がある将軍は世子を遺せない
的なジンクスめいたものが当時は割と真剣に信じられていたことから、


  • :示偏

と偏のあった字を将軍就任から1ヶ月ほどで「家定」という偏のない名前に変更しております。

が、結果は残念ながら…。

備考と参照

  • この記事は2018年までに分かっている史料等や諸記事を元に書かれております。
  • 今後見つかるかもしれない史料等によっては、全く違う内容になる可能性がある旨ご了承くださいませ。

徳川家定の次の代・前の代の将軍

参考文献など

  • 『徳川将軍列伝』
    著・北島正元
    出・秋田書店
  • 『徳川将軍家十五代のカルテ』
    著・篠田達明
    出・新潮新書
  • 『徳川十五代史』
    著・内藤耻叟
    出・新人物往来社
  • 『徳川名君名臣言行録』
    著・岡谷繁実、安藤英男
    出・新人物往来社
  • 『将軍の私生活』
    著・三田村鳶魚
    出・グーテンベルク21
  • 『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』
    著・鈴木尚
    出・東京大学出版会
  • 『徳川将軍家墓碑総覧』
    著・秋元茂陽
    出・星雲社
  • 『安静紀事』
    著・内藤耻叟

などなど他諸冊

徳川将軍家のご参考までに

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