江戸幕府第13代将軍徳川家定に関して分かっている
を中心に記載しております。
知っていても特に何かが変わるわけではない…けど、いつかどこかで何かに役立つかもしれない息抜き専用雑学としてご認識いただければ幸いです。
記事の中身をざっと見
徳川家定の性格や特徴
徳川家慶の子で唯一20歳以上になった子
病弱体質
脳性麻痺?からくる痙攣の持病あり
だからか数々の奇行あり
お菓子作り好き
ふかし芋大好き
あだ名イモ公方
人前嫌い
癇癪持ち
勉強は割と熱心
など
徳川家定の人物像を深掘り
黒船来航直後に先代であり父・徳川家慶が亡くなり、幕府内でも困窮を極めた時期に将軍就任をした徳川家定。
ですが、
していたことから、将軍就任時から後継問題が囁かれ始めていた模様。
加えて肖像画には描かれてないものの、幼少時に患った天然痘の影響で
とされ、これが原因で人前には滅多に姿を見せなかったそう。
そのため施政などは
阿部正弘
堀田正睦
井伊直弼
の面々が次々と主導していき、
状態に…。
徳川家定自身は
で、苛烈な激務に追われた重臣たちをよそにふかし芋やカステラなどを作っては重臣たちにも振る舞っていたご様子。
そのため、ある重臣からは
と皮肉のこもった揶揄をされるはめに。。
また、死因に関しては
- 脳性障害説
- 流行り病説
- かっけの疑い
など諸説様々で、
との見方もされております。
徳川家定の女性関係 色恋事情
幼い頃から病弱で将軍になってからはさらに体調を悪化させ、就任直後から継嗣問題が浮上していた徳川家定。
そんな家定に跡取りを期待する向きも薄かった中、女性側に不幸が続くことに…。
将軍就任以前から徳川家定の正室だった鷹司任子(天親院)が他界。
その後継室として迎えられた一条秀子(澄心院)も結婚生活わずか半年あまりで他界してしまいます。
将軍就任後、再び継室が迎え入れられることになるも結果として世継ぎには恵まれず先代・徳川家慶の直系男子は途絶えることとなりました。
徳川家定は江戸幕府期にて不幸にも
となりました。
最後の継室は篤姫
継室として2人目、将軍の妻としては3人目に迎え入れられたのが後の天璋院となる篤姫でした。
薩摩藩出身で時の薩摩藩主・島津斉彬の策略から徳川家定の妻として輿入れされ、家定との結婚生活は1年半あまりで子は授からなかったものの、家定が篤姫にお手製のカステラを振る舞ったりと仲は良かったご様子。
家定が不審死で他界した後には、篤姫が
など、お互いに慕い合っていたことが伺えるエピソードが残っております。
徳川家定の性格や人柄が垣間見れるエピソード
奇行は演技?
徳川家定には
など割と奇行が目立つ記録があり、加えて
などなど散々な書かれ方や言われようがされており、ダメ将軍で変人ぶりがクローズアップされがちながら…。
当時は暗殺や毒殺による陰険な派閥・実権争いも激しくなっており、将軍や後継者までも暗殺対象となっていたことから
とする説も。
お菓子作りに励んだ理由
膳に毒を盛られることも多かった時代、その対象は将軍や将軍候補者も例外ではなく
ことがありました。
その体験もあり、家定は特に食事の膳やお菓子などの食べ物に対する猜疑心が強まっていたと考えられております。
その思いは先々代であり祖父の徳川家斉の元を訪れた際に
ほど強かったそう。
であり、身内でさえ信用していなかったことが伺えるエピソードが残っております。
そのため、
とする見方も割と多く見受けられます。
周りから見た徳川家定の印象
直属の重臣たちからもその評価に関しては結構ひどい言われようの徳川家定ですが、徳川家や縁戚筋以外の人たちは徳川家定のことをどう見ていたのか?
ここでは割と好意的な印象をお持ちだった2名をご紹介。
タウンゼント・ハリス氏の場合
駐日アメリカ大使だったタウンゼント・ハリス氏が徳川家定に謁見した際、
そう。
T・ハリス氏自身も徳川家定のことを
と好意的に捉えています。
元幕臣・朝比奈昌広の場合
元幕臣で長崎奉行も勤めた朝比奈昌広によると、
と徳川家定を擁護。
死因が特定出来ない不審死
第11代将軍・徳川家斉が存命だったころから将軍周辺でも不審死が相次ぐようになっておりました。
徳川家定に関しても、その死因は
- かっけの悪化
- 流行り病だったコレラ
- 病弱だったことからくる突然死
など諸説あり、また家定が将軍として行った唯一といってもいい仕事
- 後継に慶福(後の徳川家茂)を指名
- 一橋派諸大名の一斉大処分
を行った翌日に不審死を遂げていることから、
との暗殺説も根強くあり、歴史家の間でも未だに意見は分かれております。
「家定」という名前
将軍就任時には家祥という名前だった徳川家定。
ただ、
と
的なジンクスめいたものが当時は割と真剣に信じられておりました。
そのため
と偏のあった字を将軍就任から1ヶ月ほどで「家定」という偏のない名前に変更しております。
が、結果は残念ながら…。
徳川家定の雑学的プロフィール
人物
- 生誕
- 1824年5月6日
- 旧暦:文政7年4月8日
- 星座
- おうし座
- 身長
- 約150cm
江戸時代の平均身長
155〜160cm
家系
- 氏族
- 徳川将軍家
- 血筋:一橋家
- 幼名
- 政之助
→ 家祥 - 父親
- 徳川家慶
- の四男
- 母親
- お喜代の方
- 本寿院
将軍期間
- 就任時齢
- 29歳
- 在任期間
- 1853年〜1858年
- 嘉永6年11月23日〜
安政5年7月6日 - 在任年数
- 約4年8ヶ月
- 歴代順位
- 11位
- 徳川将軍家 在任期間ランキング
奥方
- 奥方数
- 4人
- 正室:3人
- 継室:2人
- 側室:1人
- 歴代奥方数
- 7位
- 徳川将軍家 奥方数ランキング
子ども
- 子宝数
- 0人
晩年
- 享年
- 34歳
- 死因
- かっけ、コレラ、毒殺他諸説あり
- 歴代長寿ランク
- 13位
- 徳川将軍家 長寿ランキング
江戸時代の平均寿命
45〜50歳
徳川家定将軍期の主な世情
徳川家定将軍期の主な施策
執政は井伊直弼、阿部正弘らが主導
将軍継嗣問題の勃発
幕府の弱体化が顕著に
各藩の個別の力が強まる
など
国内の主な出来事
日米和親条約が締結1854(嘉永7)年
吉田松陰が現在の山口県萩市で
松下村塾を開塾11857(安政4)年
日米修好通商条約が調印1858(安政5)年
安政の大獄1858(安政5)年〜
など
徳川家定将軍期の世界情勢
クリミア半島などを舞台として行われた
クリミア戦争が勃発1853(嘉永6)年
イギリスとフランスによる中国侵略戦争
アロー号事件(アロー戦争)が起こる1856(安政3)年
インド大反乱とも称される
セポイの反乱が起こる1857(安政4)年〜
など
徳川家定の次代将軍、先代将軍
当記事の参照や備考
一部個別に記載
掲載内容に関して
年代や星座等は基本的に新暦換算で記載しております。
年数や年齢は代による暦の違いや数え年の違いから、出典により±1〜3年の誤差がある場合もございます。
掲載画像はあくまで参考イメージとしてご覧くださいませ。
当記事は2022年末までに分かっている史料等や諸記事を元に記載しております。
今後見つかるかもしれない史料等によっては、全く違う内容になる可能性がある旨ご了承くださいませ。
参考文献など
※ 以下順不同敬称略
- 『徳川将軍列伝』著:北島正元版:秋田書店,1989/12/1
- 『徳川将軍家十五代のカルテ』著:篠田達明版:新潮新書,2005/5/16
- 『徳川十五代史』著:内藤耻叟版:新人物往来社,1985/11/1
- 『徳川名君名臣言行録』著:岡谷繁実、安藤英男版:新人物往来社,1981/1/1
- 『将軍の私生活』著:三田村鳶魚版:グーテンベルク21,2016/1/15
- 『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』著:鈴木尚版:東京大学出版会,1985/12/1
- 『徳川将軍家墓碑総覧』著:秋元茂陽版:星雲社,2008/1/10
- 『開国起源安政紀事』著:内藤耻叟版:国立国会図書館,1888
など他諸冊
徳川将軍家のご参考までに
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