試験には出ない 徳川秀忠の雑学的プロフィール

徳川秀忠

多分試験には出ないし、おそらく仕事にも役に立たないし、知ってても特に何か変わるわけではないけど、いつかどこかで何かに役立つかもしれない息抜き専用雑学、

江戸幕府【二代将軍・徳川秀忠ひでただ】編。

徳川秀忠に関して分かってる性格・特徴・趣味・嗜好や、女性関係にちょっとしたエピソードなどを雑学的視点のプロフィールとして記載しています。

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徳川秀忠の雑学的プロフィール

徳川秀忠
  • 年代や星座等は新暦換算で記述しています。
  • 年数や年齢は代による暦の違いや数え年の違いから、出典により±1〜3年の誤差があると思われます。
  • 身長は愛知県岡崎市(三河国)の大樹寺にある等身大とされる位牌と、増上寺の遺骨改葬時調査記録を参考にしています。

秀忠の簡易プロフィール

  • 人物
    • 1579年5月2日生
      旧暦:天正7年4月7日
    • 星座:おうし座
    • 身長:約160cm
      :江戸時代の平均身長は155cm〜160cm
  • 家系
    • 血筋:徳川将軍家
    • 幼名:長松(長丸) → 竹千代
    • 父親:徳川家康(の三男)
    • 母親:西郷局
  • 将軍期間
  • 奥方
  • 子ども
  • 晩年

徳川秀忠をざっとおさらい

  • 父で大御所・家康とのタンデム政権
  • 「禁中並公家諸法度」の公布で公家、武家の法を整備
  • 領地宛行状の発布
  • 江戸幕府を安定させる
  • キリスト教を禁止した禁教令

などなど

秀忠将軍期の主な出来事

  • 大阪の陣
  • 山田長政がシャム(現:タイ)のアユタヤで貿易業
  • 朱印船貿易

などなど

秀忠将軍期の世界情勢

  • ガリレオ・ガリレイ、屈折望遠鏡を発明
  • ケプラー、天体の三法則を発見
  • ロシアにロマノフ王朝ができる
  • 神聖ローマ帝国を舞台とした宗教戦争「三十年戦争」が始まる

などなど

秀忠の特徴・性格・趣味・嗜好

  • 父へのあこがれ強い
  • 頑固
  • 温厚で生真面目
  • 女性関係も割りと真面目
  • 家康よりも倹約家
  • マッチョ体型
  • 結構お間抜けエピソードを持つ御仁

秀忠の人物像

出典:徳川秀忠肖像/徳川記念財団蔵別画・徳川秀忠

至って真面目な性格だったとされ、何事にも実直な対応をしていた秀忠。

その真面目さが仇となるようなちょっと残念系のエピソードが史料に残っていたり、戦においても特に戦果はなく、将軍としても大御所である父・家康や重臣たちが執りしきっており、重臣たちもまずは家康のいうことを聞いていた、的な史料が多いことから割りと無能扱いを受ける。

が、本人は父に憧れ自分でも執政等を勉強し頑張っていたご様子。

戦果は残せてないものの、筋肉質で鍛え上げられた身体の上に浅黒だったとされ、戦国の世においては見た目良く恵まれた体型だったとか。

極めて優秀な凡人?

独創性なく極端なほどまでに現実主義者で慎重派(且つ倹約家)であった秀忠は、歴代将軍に比べて見劣りする部分はあるものの、戦国の世から江戸幕府による統治国家への転換期において、法の整備など文治による基盤を強固にした、と秀忠を評価する歴史家も多数。

家康も他にいた優秀な子ではなく三男である秀忠に将軍職を譲ったのは、

「これからの統治の時代に合うのは秀忠のような男だ」

と目していた向きがあり、事実、実直な秀忠は大いにその期待に応えていたご様子。

秀忠の女性関係 色恋事情

女性事情

ちょっとややこしいい御仁

記録によっては「正室が1人」

秀忠には将来の正室と約束された「小姫おひめ」という許嫁がいるも、残念ながら小姫が若くして亡くなってしまい継室(後妻)として迎えられた江(後の崇源院)が正室となり、秀忠にとっては継室ながら江とが初婚。

小姫とは婚姻を結ばずも正室扱いを受けるため、正室は2人となるも、『婚姻を結んだ正室』という意味で「正室は1人」とする史料も。

ー ここまでのまとめ ー
婚姻した正室は1人
初婚=江(継室)

正規の記録では「側室は0人」

正室である江との間に子を設けていきますが、長男は別の女性(女中さん?)との間に儲ける。

当時は将軍の子を産んだ母親が誰でも側室になれたわけではなく、正室存命の場合は正室のお許しがないと側室にはなれないといった慣習があり、

秀忠が江に言えなかったか言わなかったか、結局秀忠の長男を産んだ女性は側室になれず、子どもだけが将軍家に取り立てられるも早世そうせい(10歳未満で亡くなってしまうこと)してしまいます。。

時が経ち「静」という女性との間に今度は四男を儲けますが、同じ理由で静も側室にはなれず、産まれた子も将軍家の扱いを受けられれず…。

そのため、徳川将軍家の正規の記録書である『徳川実記』の記録には「側室0人」、でも子は四男含め「8人」。

一説には長男の時に江にこっぴどく怒られ、静とのことは姉さん女房(秀忠より5歳上)でもある江に言えなかったと見る向きも。

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ー ここまでのまとめ ー
側室=0人

秀忠の奥方・子ども関係まとめ

  • 継室だけど江とが初婚
  • 別の女性との間に子が出来るも側室として認められず、側室は0人
  • 長男は将軍家扱い、四男は将軍家外の扱い

四男は保科正之

保科正之

秀忠と静との間に産まれた四男が、後の会津藩主や四代将軍・家綱の大政参与として幕政にも携わり、その才能を発揮し名君の誉れ高い保科正之

江を気遣ってか秀忠の生真面目な性格からか、保科正之を自分の子と認めはしても、江の死後も最後まで自分の子としては扱わなかった(将軍家の一員とはしなかった)。

秀忠の人柄が垣間見れるエピソード

エピソード

生真面目だけどおっちょこちょい

秀忠に関するちょっと残念な戦時のエピソードを2つほど。。

関ヶ原の戦いにて

出典:関ヶ原合戦図屏風/関ヶ原町歴史民俗資料館蔵関が原の戦い

初陣である関ヶ原の戦い(岐阜県)が数日後に迫ろうかとする時、相手方の石田軍に付き上田城(長野県)で籠城する真田昌幸を落としてこいとの家康の命を受け、大群で攻めるも真田昌幸の策にはまり、時間稼ぎを喰らってしまう。

実直に家康の命を守ろうと城を落としにかかるも、結局上田城は落ちず、肝心の関ヶ原の戦いにも大遅刻して到着…。

機転が利かず頑なだったと見る向きもあり、家康に大目玉をくらう。。

大坂の陣にて

出典:大阪夏の陣屏風/六曲一双画 紙本金地著色 大阪城天守閣所蔵大阪夏の陣

将軍となり大御所・家康と治世を進めていた秀忠。

ネックとして残っていた豊臣家問題に決着をつけるべく、自ら大阪城に乗り込み豊臣家を討つことに。

関ヶ原の戦いの時の大遅刻があったため、今度は我先にと江戸から軍を率いて休みなく大阪へ向かう。

先立って大阪に到着するも、途中ほとんど休みなくあまりにも強行に歩みを進めたため、兵士たちは疲労困憊で戦える状態になく。。

またも家康に大目玉をくらう。。

元来真面目な性格

お茶のもてなし

江を気遣ってか他の女性に奥手だった秀忠を思い量って、ある日の夜、父・家康が秀忠に女性をあてがう。

が、丁重におもてなしはするも、結局一切手を触れることなく朝を迎える。

その様子に家康は、男として呆れ、世継ぎとして褒め称えたとか。

備考

  • この記事は2015年までに分かっている史料等や諸記事を元に書かれています。
  • 今後見つかるかもしれない史料等によっては、全く違う内容になる可能性がある旨ご了承ください。
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