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徳川秀忠の性格、色恋、人柄エピソード選などの雑学的プロフィール

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徳川秀忠

江戸幕府第2代将軍 徳川とくがわ秀忠ひでただに関して分かってる

を中心に記載しております。

知っていても特に何かが変わるわけではない…けど、いつかどこかで何かに役立つかもしれない息抜き専用雑学としてご認識いただければ幸いです。

徳川秀忠の性格や特徴

巻物

父(家康)へのあこがれが強い

冷静沈着

理論派

温厚で生真面目

女性関係も割りと真面目

結構頑固

家康よりも倹約家

家臣に優しい

マッチョ体型

初陣は関ヶ原の戦い

戦に関しては残念なエピソードを持つ御仁

割としたたか

武将としての評価は低い

為政者としての評価は高い

など

徳川秀忠の人物像を深掘り

深掘り

至って真面目な性格だったとされ、

武士 家臣 いかなる物事に対しても、実直過ぎるほどの対応をしていた

とされる徳川秀忠。

その真面目さが仇となるようなちょっと残念系のエピソードが史料に残っていたり、戦においても特に戦果はなく、将軍としての為政も大御所である父・家康や重臣たちが執りしきっており、

歴史書 その重臣たちもまずは家康の言うことを聞いていた

的な史料が多いことから割りと無能扱いを受ける傾向にありがちな御仁。。

ですが、本人は父に憧れ自分でも執政等を勉強し頑張っていたご様子。

特に家康亡き後は政治関連に独自色を強く打ち出しており、

  • 家康派家臣の排除
  • 鎖国態勢の礎造り
  • キリスト教弾圧
  • 徳川御三家の創設

などを次々と断行しつつ、幕府の支配的立場を強化しております。

宗家となる将軍家に次ぐ家督を与えられた徳川家の分家。

  • 尾張
  • 紀州
  • 水戸

の3家で、宗家に何かあった場合に将軍職を後継する特権が認められておりました。

その様子を近くで見ていた家臣の中には

武士 真の本性見たり…

と徳川秀忠を恐れていた者も少なくなかったそう。

また、秀忠自身の娘を朝廷に嫁入りさせており、その娘が後の天皇の母になることから

歴史家 歴史家 天皇の祖父として徳川幕府の権力を朝廷より高め、絶対的なものとした

のも徳川秀忠将軍期のことでした。

徳川秀忠はしたたかな能力者?

極端なほどまでに現実主義者で慎重派且つ倹約家でもあったと目されている徳川秀忠。

歴代将軍に比べて見劣られがちな部分はあるものの、戦国の世から江戸幕府による統治国家への転換期において

歴史家 歴史家 法の整備など文治による基盤を強固にし、朝廷工作なども含めて幕府権力を築き上げた

と秀忠を評価する歴史家は多数。

父である徳川家康も武芸や戦果に優れた他の息子たちではなく、三男である秀忠に将軍職を譲ったのは、

徳川家康 徳川家康 これからの統治の時代に合うのは、秀忠のような男だ

と目していた向きがあり、事実、実直な秀忠は大いにその期待に応えることとなりました。

また、際立った戦果は残せてないものの、遺体には銃痕が複数あることから

徳川秀忠 徳川秀忠 戦場では先陣をきって敵に向かっていた

とされ徳川秀忠自身

徳川秀忠 徳川秀忠 筋肉質で鍛え上げられた身体の上に浅黒だった

ようで戦国の世においては見た目良く恵まれた体型だったと考えられております。

徳川秀忠の性格や人柄が垣間見れるエピソード

書

生真面目だけどおっちょこちょい

結構な生真面目だったとされる徳川秀忠。

その性格が仇?となり、こと戦に関しては良く書かれた史料が乏しい御仁…。

そんなちょっと残念な戦時のエピソードを2つほど。

関ヶ原の戦いにて

関ヶ原の戦い

関ヶ原合戦図屏風

徳川秀忠の初陣となった関ヶ原の戦い(岐阜県)が数日後に迫ろうかとする時、相手方の石田軍に付き長野・上田城で籠城していた

徳川家康 徳川家康 真田さなだ昌幸まさゆきを倒してこい

と父・徳川家康の命を受け大群で攻め入ります。

が、真田昌幸の策にはまり時間稼ぎを喰らってしまうことに。

実直に徳川家康の命を守ろうと城を落としにかかろうとすれど結局上田城は落ちず、肝心の関ヶ原の戦いにも大遅刻…。

徳川秀忠側にも諸々言い分がある中、

声 機転が利かず頑なだった

と見る向きが強く、徳川家康に大目玉をくらうことに…。

大坂の陣にて

大坂の陣

大阪夏の陣屏風

出典:

徳川秀忠が将軍となり、大御所となっていた徳川家康と治世を進めていた当時。

ネックとして残っていた豊臣家存続問題に決着をつけるべく、自ら大阪城に乗り込み豊臣家を討つことに。

関ヶ原の戦いの時の大遅刻があったため、今度は我先にと江戸から軍を率いて休みなく大阪へ向かう気概を示しました。

徳川秀忠のあまりの気概ぶりをみた徳川家康から

徳川家康 徳川家康 そんなに逸るな

と諭されるも聞かず、先立って大阪へ到着。

…しかし、移動途中ほとんど休まず、あまりにも強行に歩みを進めたため、兵士たちは疲労困憊で戦える状態にはなく。。

またも家康に大目玉をくらうこととなりました…。

冷静沈着の理論派

論理

戦に関してはちょっと残念なエピソードがあるものの、普段は割と冷静沈着であまり動じないタイプだったとされる徳川秀忠。

そんな冷静沈着ぶりが垣間見えるエピソードも2つほど。

牛の乱入にも動じず

牛

徳川秀忠がまだ13歳くらいの頃のこと。

当時から勉強熱心だった秀忠が儒学の講義を受けていたところ、突然部屋の中に一頭の牛が乱入してきて鳴き喚きながら障子や戸をなぎ倒す事態があったそう。

徳川秀忠の側近たちは慌てくためくも、秀忠は全く意に介さず

歴史書 ただ一人講義を聞く姿勢で騒ぎを静観したいた

とのエピソードが残されております。

地震にも動じず

地震計

大坂の陣から数年経ったある日のこと、弟の徳川とくがわ義直よしなおと共に屋内で能を観劇している最中に割と大きめの地震が発生しました。

側近たちや観客らがパニックになっていた時、秀忠はすぐさま柱や屋根を確認し崩れる兆候がないことを自ら確かめると、

徳川秀忠 徳川秀忠 下手に動かないほうが安全だ

と即断。

周囲に対応を指示し、被害や混乱を見事に抑えたそう。

家臣に優しい

水墨画

父・徳川家康亡き後は自ら率先して為政を行います。

特に諸大名の家督問題には積極的に首を突っ込み割と冷徹な処断を下すなど、家臣たちからもちょっと恐れられていた徳川秀忠。

ですが、家臣に対しては結構優しい一面もあり、そんな秀忠の家臣を想う気持ちが伺えるエピソードも2つほど。

とある鷹狩の時に

鷹狩

徳川秀忠が鷹狩りをしていた時のこと、山間のかなり狭い道を馬に乗って通らなければならなくなりました。

片方は切り立った崖になっている細道を家臣が慎重に誘導していたものの、

奉公人 決して殿を崖に落とすまい…!

と慎重になりすぎて、徳川秀忠を崖側とは反対側の上り斜面に落馬させてしまう事態が発生…。

後ろから付いていっていた他の家臣たちが、

声 上様落馬!上様落馬!

と慌てふためき、その場は大騒ぎになったそう。

将軍である徳川秀忠を落馬させてしまったとあって、誘導していた家臣はその場で打首を言い渡されてもおかしくない状況の中、

徳川秀忠 徳川秀忠
大事ない。

お前が予を大事に想ってくれながら誘導していたのは分かっていた。

痛いとこもないし大丈夫だ。

と笑いながら言い起き上がったそう。

加えて

徳川秀忠 徳川秀忠 ほら、予についた砂をはらえ。

と続け、打首にするどころか徳川秀忠自身が砂をはらえということで

今後も仕え続けるように

と暗に伝えたエピソードがあります。

こぼした汁物

お吸い物

ある時鷹狩で徳川秀忠自ら獲った鶴を家臣に譲り

徳川秀忠 徳川秀忠 汁物にして飲むと美味いぞ

と下賜したことがあったそう。

早速調理し汁物を頂戴しようとするも、鶴を将軍自ら賜ってくれたありがたさから家臣は感激して手が震え、お椀ごとひっくり返してしまいました…。

歴史家 歴史家 将軍の前ではいかなる粗相も切腹ものの重罪だった

ご時世、秀忠もその場おり周りのお仕え人たちも凍りつきます。

当然お椀をひっくり返した様子を秀忠も見ていたものの、脇差を杖代わりにして頬杖をついている態勢だったため、そのままうたた寝してる素振りをして何も見なかった振りをして見過ごします。

  • 自ら獲った鶴をダメにしたこと
  • 粗相をしたこと

を罰せず

歴史家 歴史家 むしろ家臣の身を気遣い、寛大な措置を取った

秀忠の家臣思いなことが伺えるエピソード。

女性に対しても生真面目?

茶室

江と結婚してからは江を気遣ってか怖くてか、他の女性に奥手だったそうな徳川秀忠。

そんな秀忠を思い量って、ある日の夜、父・徳川家康が秀忠に一夜をともにする女性をあてがいました。

が、お茶を淹れるなど丁重におもてなしはするも、結局一切手を触れることなく朝を迎えたそう。

その様子を聞いた家康は

徳川家康 徳川家康 男として呆れ、世継ぎとして褒め称えた

とのエピソードもあります。

徳川秀忠の女性関係 色恋事情

着物女性たちの花見

記録によっては「正室1人」

徳川秀忠には将来の正室と約束された小姫おひめという許嫁がおりました。

が、残念ながら小姫は若くして亡くなってしまいます…。

継室(後妻)として迎えられた江(後の崇源院すうげんいん)が正室となり、徳川秀忠にとっては継室ながら江とが初婚となりました。

小姫とは婚姻を結ばずも正室扱いを受けるため、正室は2人となるも婚姻を結んだ正室という意味で

巻物 徳川秀忠の正室は1人

とする史料もあります。

公式の記録では「側室0人」

花見

正室である江との間に子を授かるも、徳川秀忠自身の長男は別の女性との間の子。

当時は将軍の子を産んだ母親が誰でも側室になれたわけではなく、

歴史家 歴史家 正室存命の場合は、正室のお許しがないと側室にはなれない

慣習がありました。

徳川秀忠の場合、江に言えなかったか言わなかったか、結局秀忠の長男を産んだ女性は側室になれず、子どもだけが将軍家に取り立てられるも早世そうせいしてしまいます…。

早世

幼児期や10歳未満で亡くなってしまうこと

時は経ち、女中のせい(後の浄光院じょうこういん)との間に今度は四男を儲けるも、同じ理由で静も側室にはなれず、今度は産まれた子も将軍家の扱いを受けられれず。。

そのため、徳川将軍家の公式記録書徳川実紀には、

歴史書 徳川秀忠の側室は0人

とされるも静の存在は周知の事実でほぼ側室扱いだったそう。

一説には長男の時に江にこっぴどく怒られ、

武士 静とのことは5歳年上の姉さん女房である江に言えなかったのでは…

と噂されております。

そのため、徳川秀忠に関しては

  • 継室だけど江とが初婚
  • 別の女性との間に子が出来るも側室として認められず、公式記録では側室は0人
  • 長男は将軍家扱い、四男は将軍家外の扱い

となっております。

四男は保科正之

保科正之

保科正之 肖像

徳川秀忠と静との間に産まれた四男は、後に

  • 会津藩主
  • 大政参与
  • 第4代将軍 徳川とくがわ家綱いえつな

など幕政にも携わり、その才能を発揮し名君の誉れ高い保科ほしな正之まさゆきでした。

江を気遣ってか徳川秀忠の生真面目な性格からか、保科正之を自分の子と認めはしても、江の死後も最後まで将軍の子としては扱わなかったそう。

将軍の子としては扱わない

将軍家の一員としない

徳川秀忠の雑学的プロフィール

徳川秀忠

徳川秀忠 肖像画

出典:徳川記念財団

人物

  • 生誕
  • 1579年5月2日
  • 旧暦:天正7年4月7日
  • 星座
  • おうし座
  • 身長
  • 約160cm

江戸時代の平均身長

155〜160cm

家系

  • 血筋
  • 徳川将軍家
  • 幼名
  • 長松ながまつ(長丸) → 竹千代たけちよ
  • 父親
  • 徳川とくがわ家康いえやす
  • 三男
  • 母親
  • 西郷局さいごうのつぼね

将軍期間

奥方

  • 奥方数
  • 2人以上
  • 正室:2人(継室:1人)
  • 側室:2人
  • 側室はいたが正式な側室ではないため公式記録には含まれず
  • 歴代奥方数
  • 13位
  • 徳川将軍家 奥方数ランキング

子ども

晩年

江戸時代の平均寿命

45〜50歳

徳川秀忠将軍期の主な世情

徳川秀忠将軍期の主な施策

父で大御所の徳川家康とのタンデム政権

一国一城令

武家諸法度

キリスト教の禁教令

江戸幕府を安定させる

など

徳川秀忠将軍期の主な出来事

大阪の陣1614(慶応19)年〜

など

徳川家康将軍期の世界情勢

ケプラーが
天体の三法則を発表。1604(慶長9)年

通称ケプラーの法則

ロシアに
ロマノフ王朝が誕生。1609(慶長14)年

神聖ローマ帝国を舞台とした宗教戦争三十年戦争が勃発。1618(元和4)年〜

山田やまだ長政ながまさがシャム(現:タイ)のアユタヤで貿易業を開始。1620(元和6)年頃

など

徳川秀忠の次代将軍、先代将軍

当記事の参照や備考

徳川記念財団

国立国会図書館

一部個別に記載

掲載内容に関して

年代や星座等は基本的に新暦換算で記載しております。

年数や年齢は代による暦の違いや数え年の違いから、出典により±1〜3年の誤差がある場合もございます。

掲載画像はあくまで参考イメージとしてご覧くださいませ。

当記事は2022年末までに分かっている史料等や諸記事を元に記載しております。

今後見つかるかもしれない史料等によっては、全く違う内容になる可能性がある旨ご了承くださいませ。

参考文献など

  • 『徳川将軍列伝』著:北島正元版:秋田書店,1989/12/1
  • 『徳川将軍家十五代のカルテ』著:篠田達明版:新潮新書,2005/5/16
  • 『徳川十五代史』著:内藤耻叟版:新人物往来社,1985/11/1
  • 『徳川名君名臣言行録』著:岡谷繁実、安藤英男版:新人物往来社,1981/1/1
  • 『将軍の私生活』著:三田村鳶魚版:グーテンベルク21,2016/1/15
  • 『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』著:鈴木尚版:東京大学出版会,1985/12/1
  • 『徳川将軍家墓碑総覧』著:秋元茂陽版:星雲社,2008/1/10
  • 『名将言行録』著:岡谷繁実、他版:講談社学術文庫,2013/6/11
  • 『徳川秀忠「凡庸な二代目」の功績』著:小和田哲男版:出・PHP研究所,1999/11/1
  • 『二代将軍・徳川秀忠―忍耐する“凡人”の成功哲学』著:河合敦版:幻冬舎新書,2011/4/1
  • 『徳川秀忠』著:山本博文版:吉川弘文館,2020/2/26

などなど他諸冊

徳川将軍家のご参考までに

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