江戸幕府初代将軍 徳川家康に関して分かってる
を中心に記載しております。
知っていても特に何かが変わるわけではない…けど、いつかどこかで何かに役立つかもしれない息抜き専用雑学としてご認識いただければ幸いです。
記事の中身をざっと見
徳川家康の性格や特徴
壮年期は割と短期
三英傑と称される戦国武将
晩年は我慢の男
策士
勉強熱心
理論派
感情を表に出さないタイプ
几帳面
敵味方問わず有能者好き
割と執念深く根に持つタイプ
武術(剣、砲、弓、馬など)の腕は一流
スポーツ万能
健康志向というかむしろ健康オタク
薬の調合が得意
倹約家
囲碁や将棋好き
奥さんが20人以上
歴代将軍No.1
身分の高くない未亡人が好み
けっこう子沢山
強運で大成功を収めると言われる手相「ますかけ線」の持ち主
など
徳川家康の人物像を深掘り
からも伺える家康の忍耐強い性格。
ただ、ホトトギス発言は
と併せて
とされております。
江戸後期における創作の可能性あり
血気盛んな青年期は
- 馬術
- 弓
- 砲術(鉄砲)
など武芸の鍛錬に励んでいた家康。
ある時約100m先にいた鶴を砲術(鉄砲)で狙うも全く当たらない家臣たちをよそに、家康は見事撃ち落としに成功させるなど
で運動神経も抜群だったそう。
ですが割と短期でちょっと癇癪持ちだったとされ、戦の最中に
ちょっとでも形勢が悪くなる
自身の読みが外れる
などすると軍配団扇や自分の爪を噛んでたり、
戦況が完全に不利なる
とすぐ激高して馬の鞍を拳で殴りつける癖がありました。
そのため、家康が愛用していた軍配団扇は
で拳は腫れてコブだらけだったのが分かっております。
また、武田信玄と対峙した三方ヶ原の戦いでは、信玄の誘いに乗ってしまい家臣の反対を押し切って突撃するも大敗北を喫することに…。
とは対象的に、中国や日本の歴史書をはじめ勉強熱心で結構な理論派にして頑固ながら、自分の我を押し通すことは少なく周りの意見もしっかり聞くまとめ役だった面も。
時代背景もあってか、幼少のころより人に裏切られてきた経験からか、発言には慎重で家臣からすれば
だったそう。
加えて、
人の振り見て我が振り直すタイプ
で人の行いや自らの失敗も含め、何かを吸収してそこから学び活かしていく洞察的眼力にも優れていたご様子。
徳川家康の性格や人柄が垣間見れるエピソード
忍耐強かったり、洞察力に優れていたり、勉強熱心だったり…といろんな逸話が残る徳川家康。
そんな徳川家康の人柄や性格が伺えるエピソードをいくつかご紹介。
石合戦を見て
徳川家康がまだ幼名・竹千代を名乗っていた10歳くらいのころ、同年代の子どもたちが河原で石合戦をしている場面に遭遇。
二組に分かれて石を投げぶつけ合う当時の子どもの遊びの一種。
一組は少数でもう一組は倍以上の人数がいるのを見て、
と一言。
それを聞いた家臣たちは笑って取り合わなかったものの、結果は見事家康の予想通り少数が勝利。
驚いた家臣が、
と家康に聞くと、その答えは
と極めて論理的な返答を。
当時から優れた洞察力があったことと、団結する大事さを認識していたことが分かるエピソード。
vs武田軍「三方ヶ原の戦い」にて…
武芸にも長けていて、当時海道一の弓取りと称されていた徳川家康。
若気の至りか勢いか、家臣たちの説得虚しく軍勢が倍近くも多い武田信玄に向かっていくも大惨敗を喫する結果に…。
武田軍のあまりの恐ろしさを目の当たりにし、敗走中に馬上にて脱糞してしまうほどだったとか。
命からがら逃げおおせた家康は、帰城してすぐに
と自身の肖像画を描かせる命令をしたそう。
その命令で出来上がった絵がこちら。
上記絵には
とされ、大惨敗したことをしっかりと肝に命じ自身の慢心を戒めるために描かせたと解釈されておりました。
が、近年の研究では
とする説が有力となっております。
医師、薬剤師向きなエピソード2選
徳川家康は割と割腹が良かったためか健康には特に気を遣っていたとの記録が残っております。
医療に関する勉強にも熱心で薬にも詳しく、本草には特に興味を持ち自分でも調合をしていたほどの知見を有しておりました。
本草
漢方薬に近いもの
内臓系に良いとされていた薬を飲んでいたり精力剤も服用していたりで、これが
と見る向きもあります。
そんな徳川家康の医療系に関するエピソードを2つほど。
自分で処方も出来る
圧倒的な医学の知識を持っていたとされる徳川家康。
ある時、家康自身が病にかかった際、医者に処方された見立てと自身の見解が食い違うことに。
この時自分の見立てを信じ、自分で本草を調合するなどして自己治療で正確に病を治してしまうほどだったそう。
関ヶ原の戦いにて
豊臣秀吉亡き後の覇権を巡る石田三成との天下分け目の戦いと称される
の際に、
との伝承が残っております。
これは感染症を防ぐ大きな効果があり、家康自身に医学的な知見が高かったことが伺えるエピソードとして残っております。
結構執念深い性格?なエピソード2選
割と執念深く根に持つタイプだっとされる徳川家康。
そんな家康の執念深さや根に持つタイプだったことが伺えるエピソードも2つほど。
30年越しの復讐?
若い頃から鷹狩が大好きだった徳川家康。
訓練した鷹などの鳥を使って鳥類や哺乳類を捕らえさせる狩猟の一種。
身分の高い人の嗜みとされていた傾向があります。
まだ幼名・竹千代を名乗っていた今川義元の人質時代、庭で鷹を飛ばしていたところ、鷹が勝手に今川義元の家臣だった孕石元泰の屋敷へ度々入り込んでしまいます。
その都度孕石から
など幾度となく悪態をつかれる羽目に。。
時は30年ほど流れ、武田軍との争いの中で武田勝頼の支城だった高天神城を徳川家康が落とした時のこと。
この時降伏した敵方の軍勢の一人に孕石元泰がおりました。
その孕石に対して、
と降伏した敵武将の中で唯一切腹を命じます。
鷹狩り訓練をしていて悪態をつかれた竹千代時代の思いがしっかり残っていたご様子。
重臣・酒井忠次に対して
気性が荒く扱いが難しかったとされる徳川家康の長男・徳川信康。
信康は織田信長の娘・徳姫の所に婿養子に行くも徳姫ともソリが合わず、堪りかねた徳姫は父・信長に
と何の根拠もないのに信康を貶める進言を。
これを聞いて真に受けた織田信長は激怒し、徳川信康を切腹させるよう徳川家康に命じました。
徳川家康は驚き、信康の助命嘆願をしに重臣の酒井忠次を織田信長の元へ遣いとして送ります。
が、酒井忠次は割とあっさり織田信長の命の実行を約束してしまい…。
かくして織田信長の命令通り、長男・徳川信康に切腹するよう父・徳川家康自ら命じ、信康は命を落とすこととなりました。
徳川家康自身このことをずっと悔いていたそう。
ただ、あっさり引き下がった酒井忠次に対してはその後もその働きに対してきちんと見合った出世をさせていっておりました。
月日は流れ豊臣秀吉の天下となり、秀吉の命で徳川家康が江戸に領地替えさせられたときのこと。
徳川家康が家臣たちに新たな配置割を行うも、酒井家に対してだけはなぜか土地も石高も他の重臣たちより格下扱いの判断を下します。
この時すでに息子に家督を譲り隠居の身だった酒井忠次は、息子を不憫に思い、徳川家康に対して
それに対してこの扱いは余りの仕打ちですし、これでは息子の面子を丸つぶれになってしまいます。
どうかご再考いただけないでしょうか…?
と懇願。
それに対して、家康
と一蹴。
徳川信康が自害させられた時には切に懇願しなかった酒井忠次に対して、強烈な一言を浴びせております。
とても倹約家なエピソード2選
衣服は滅多に新調せず同じものを着回していたり、家も広くなく豪華なものを嫌っていたとされる徳川家康。
そんな倹約家なエピソードも2つほど。
天下取りの心得
お手洗いから出て手を拭くため懐から紙を出そうとしたら、その紙が風で飛ばされ庭まで出てしまったそう。
徳川家康はその紙を追って庭まで取りに行きました。
その様子を見ていた家臣が思わず笑ってしまったことに対して、
と一喝。
たかが紙だとか新しい別のものを使えばいい、とはせず、どんなものでも
- 自分が持っているものを大事に扱うこと
- 何事にも執着心を持つ心得
が垣間見られるエピソード。
しょっぱい漬物
ある時女中たちから、
と苦情を受け、徳川家康自ら給仕に問いただしたところ、給仕からは
との返答が。
その返答に家康は笑って
と返しております。
徳川家康の人を思う気持ち
徳川家康がまだ三河国にいたときのこと。
健康管理と夏場は食料が少なくなることもあって食事は麦飯でした。
それを気にかけた家臣がある時、膳に白米を出しました。
が、家康は
と白米を断わり、それまでと変わらず麦飯を食し続けたそう。
徳川家康の女性関係 色恋事情
20人以上と圧倒的に多い側室数
江戸幕府を開き将軍となったことで世継ぎ遺しはとても大事になってきますが、徳川家康の場合、将軍就任時は61歳。
江戸時代の平均寿命
45〜50歳
将軍就任以前から既に側室も多く、61歳までに子を
9
4
儲けており、なかなかの色好みだったご様子。
綺麗な女性や血筋の良い女性は外部から何かと目の敵にされたり、女性自身も何かと煩い傾向にあり失敗してきた周りの人たちを見てきたせいか、
のが家康流。
- 女中さん
- お手伝いさん
- 未亡人
をはじめ、中には人妻だったのを強引に別れさせて自分の側室にしたりと、結構な自由恋愛スタイルだった模様。
なかなかな絶倫ぶり
生涯で11男5女と計16人の子宝に恵まれた家康。
- 10代で 2人
- 20代で 1人
- 30代で 4人
- 40代で 1人
- 50代で 5人
- 60代で 3人
と、当時の平均寿命が45〜50歳と言われる中で50代以降に8人もの子どもを儲ける絶倫ぶりを発揮。
当然?子は産まれなかったが手を付けた女性は多く…
落胤が多い
落胤が多いとされる家康。
- 父親未認知の子
- おとしご
- 隠し子
を意味する言葉。
少なくても10人近くの落胤がいたとされ、中には後の将軍だったり有力大名や各藩の施政者だったりもすることから、歴史家の中では、
見方と、
と見る向きに分かれるそう。
ここではその落胤とされる人物のほんの一例を。
徳川家康の落胤説三代将軍・徳川家光
第二代将軍・徳川秀忠と江(崇源院)との間に産まれた後の第三代将軍徳川家光。
家光自身が父・秀忠と母・江との仲がよろしくなく、徳川家光が持っていたとされるお守りの中に
と記載していることや関連史料が見つかっていることなどから、極めて信憑性は低いものの
と見る向きもあります。
徳川家康の落胤説豊臣秀頼
豊臣秀吉と淀君(茶々)との間に産まれたとされる豊臣秀頼。
しかし、秀頼が産まれたときには秀吉自身が老体であったことと
説もあることから、
と見る向きも強く、そうなると
ということになります。
その父親候補の1人として徳川家康の名前もしっかり文献に登場するご活躍ぶり。
徳川家康の落胤説土井利勝
第二代将軍・徳川秀忠、第三代将軍・徳川家光の時に側近として絶大な権勢を発揮した土井利勝も
と、徳川家公式の記録徳川実紀にまで記載されております。
徳川家康は日本人で初めて◯◯した人…?
割と新しいものが好きだったり西洋諸国の品々に興味があったとされる徳川家康。
特に実用的なものは自ら多く取り入れ好んで使っていたご様子で、
とされるものがいくつかあります。
ここではその代表的な2例をご紹介。
徳川家康は日本人で初めて鉛筆を使った人…?
徳川家康が当時使っていた硯箱の中から鉛筆が発見されており、この発見された鉛筆が日本最古のものであることから、
だと目されております。
- 削るタイプ
- 詰めるタイプ
の2タイプが以後世界中に出回るようになっていきました。
家康の硯箱から見つかった鉛筆は「削るタイプ」で形状もほぼ同じものであることから、
とされております。
また、黒鉛を「詰めるタイプ」の鉛筆が伊達政宗の墓地・瑞鳳殿からも見つかっており、時期的にも家康とほぼ同じであることから
だと考えられております。
徳川家康は日本人で初めてメガネを使った人?
メガネが日本に伝わったのは、フランシスコ・ザビエルが宣教のために日本各地を訪れていた過程で
だとされております。
ただ、大内義隆自身がメガネを使用した記述や文献が全く出てきてないことから、
とする説が有力となっております。
そこで実際にメガネを使用した記録がある家康が、
とされております。
余談
徳川家康が実際に愛用していたとされるメガネは静岡県・久能山東照宮に2つ保管されており、拝覧も可能になっております。
徳川家康の雑学的プロフィール
出典:川越大師 喜多院蔵
人物
- 生誕
- 1543年1月31日
- 旧暦:天文11年12月26日
- 星座
- みずがめ座
- 身長
- 約160cm
江戸時代の平均身長
155〜160cm
家系
- 血筋
- 三河国・松平家
- 幼名
- 竹千代
- 父親
- 松平広忠
- 母親
- 於大の方
将軍期間
- 就任時齢
- 61歳
- 在任期間
- 1603年〜1605年
- 慶長8年2月12日〜
慶長10年4月16日 - 在任年数
- 約2年2ヶ月
- 歴代順位
- 14位
- 徳川将軍家 在任期間ランキング
奥方
- 奥方数
- 22人以上
- 正室:2人(継室:1人)
- 側室:20人(以上とも…)
- 歴代奥方数
- 1位
- 徳川将軍家 奥方数ランキング
子ども
- 子宝数
- 16人以上
- 男子:11人
- 女子:5人
- 歴代子宝数
- 4位
- 徳川将軍家 子宝数ランキング
晩年
- 享年
- 73歳
- 死因
- 胃がん説が有力
- 歴代長寿ランク
- 2位
- 徳川将軍家 長寿ランキング
江戸時代の平均寿命
45〜50歳
徳川家康将軍期の主な世情
徳川家康将軍期の主な施策
糸割符制度の開始
など
徳川家康将軍期の世界情勢
フランスが東インド会社を設立1604(慶長9)年
など
徳川家康の次代将軍
次代
徳川秀忠の性格、色恋、人柄エピソード選などの雑学的プロフィール
当記事の参照や備考
一部個別に記載
掲載内容に関して
年代や星座等は基本的に新暦換算で記載しております。
年数や年齢は代による暦の違いや数え年の違いから、出典により±1〜3年の誤差がある場合もございます。
掲載画像はあくまで参考イメージとしてご覧くださいませ。
当記事は2022年末までに分かっている史料等や諸記事を元に記載しております。
今後見つかるかもしれない史料等によっては、全く違う内容になる可能性がある旨ご了承くださいませ。
参考文献など
- 『徳川将軍列伝』著:北島正元版:秋田書店,1989/12/1
- 『徳川将軍家十五代のカルテ』著:篠田達明版:新潮新書,2005/5/16
- 『徳川十五代史』著:内藤耻叟版:新人物往来社,1985/11/1
- 『徳川名君名臣言行録』著:岡谷繁実、安藤英男版:新人物往来社,1981/1/1
- 『将軍の私生活』著:三田村鳶魚版:グーテンベルク21,2016/1/15
- 『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』著:鈴木尚版:東京大学出版会,1985/12/1
- 『徳川将軍家墓碑総覧』著:秋元茂陽版:星雲社,2008/1/10
- 『徳川家康文書の研究』著:中村孝也版:日本学術振興会,1960/1/1
- 『徳川家康公伝』著:中村孝也版:東照宮社務所,2019/9/25
- 『徳川家康』著:山岡荘八版:講談社,1987/10/1
- 『覇王の家』著:司馬遼太郎版:新潮文庫,2002/4/30
- 『徳川家康に学ぶ健康法』編:永野次郎版:メディアソフト,2014/12/11
などなど他諸冊
徳川将軍家のご参考までに
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