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徳川家光の性格、特徴、趣味、嗜好や女性関係などの雑学的プロフィール

徳川家光

試験にはちょっと出づらいし、おそらく仕事には役に立たないし、知ってても特に何かが変わるわけではないけど、いつかどこかで何かに役立つかもしれない息抜き専用雑学、

江戸幕府 第三代将軍・徳川家光いえみつ編。

徳川家光に関して分かってる性格、特徴、趣味、嗜好や女性関係にちょっとしたエピソードなどを雑学的プロフィールとして記載しております。

徳川家光の雑学的プロフィール

年代や数字に関して

  • 年代や星座等は基本的に新暦換算で記載しております。
  • 年数や年齢は代による暦の違いや数え年の違いから、出典により±1〜3年の誤差がある場合もございます。

徳川家光

人物

  • 生誕:1604年8月12日生
    旧暦︰慶長9年7月17日
  • 星座:しし座
  • 身長:約157cm
    江戸時代の平均身長
    155〜160cm

家系

  • 血筋:徳川将軍家
  • 幼名:竹千代
  • 父親:徳川秀忠(の次男)
  • 母親:江
  • 乳母:春日局

将軍期間

奥方

子ども

晩年

徳川家光をざっとおさらい

徳川家光 肖像画

徳川家光 肖像画

出典:徳川記念財団蔵

  • 武断政治を推進
  • 幕藩体制の確率
  • 老中・若年寄・奉行・大目付などの役職整備
  • 参勤交代制度導入
  • 鎖国制度の樹立
  • 農民統治を目的とした
    高札板
    慶安の御触書
    を発布

などなど

家光将軍期の主な出来事

  • 島原の乱
    1637(寛永14)年〜
  • 寛永の大飢饉
    1640(寛永17)年頃〜

などなど

家光将軍期の世界情勢

  • インドでタージ・マハールの建設が始まる
    1632(寛永9)年
  • イギリスでピューリタン清教徒革命が起こる
    1642(寛永19)年

などなど

徳川家光の性格、特徴、趣味、嗜好

文書

  • 「生まれながら将軍」発言
  • 幼い頃から割りと病弱
  • 結構やんちゃ
  • 戦話が大好き
  • 強気な性格
  • おじいちゃん(家康)大好き
  • 父・秀忠、母・お江嫌い
  • 乳母・春日局びいき
  • 外出、夜遊び好き
  • 男好きで女装好き
  • 結構派手なものが好き
  • 墨絵好き
  • 政治には割りと無関心
    :早年
  • 冷徹、策士的な一面も
    :後年

などなど

徳川家光の人物像

徳川家光

幼少の頃より顔にできものがあったり、ちょっと吃音の気もあり、且つどちらかと言うとブサメンだったそうな徳川家光。

結構な病弱体質で

歴史家
存命が危ぶまれるほどの病を何度か経験している

そう…。

とは対象的に、容姿・知能・健康に優れた弟・国松(後の忠長)を母・お江があからさまに可愛がり、父・秀忠もお江に倣うかたちで国松びいきは家臣たちにまで伝播していたとか。

その影響もあり、家光が常に持っていたとされるお守りの中に、自ら

徳川家光
父である家康様みたいに私はなりたい…!

と書いた紙を入れるなど、結構な父・秀忠嫌いで大のおじいちゃん(家康)好き。

また、病弱ながらお城を抜けだしては街に遊びに行ったりと結構やんちゃな一面もあり割りと活発だったご様子。

その活発ぶりからか、柳生宗矩むねのりに剣術を師事してもらい柳生新陰流の免許まで取得。

一方で30代の頃までは

歴史家
男色一辺倒で、女装癖も持ち合わせていた

とされ、40代手前で女性に目覚め一気に覚醒することとなりました。

政治に関して

家光将軍期に

  • 老中
  • 若年寄
  • 奉行
  • 大目付

などの役職を設立し

  • 幕府内の役職整備
  • 参勤交代制度の導入をはじめとした幕藩体制の確立
  • 国力を高めることを進めた鎖国制度の樹立

などなど、日本史の教科書でも割と登場機会の多い御仁。

ただ、上記は

歴史家
父であり先代の第二代将軍・徳川秀忠が基盤を創り、その頃から仕えていた重臣たちが奨めた制度改革

と目されており、家光自身は

歴史家
将軍期の始めの頃は、政治にほとんど無関心だった

と見る向きが多数。

親の愛情を知らない家光を親身になって育ててくれた乳母・春日局の言うことは結構何でも聞いていた感があり、特に晩年は春日局の意向あってかまつりごとにも身を入れて取り組むようになったご様子。

徳川家光が尊敬する人

徳川家康

徳川家康 肖像画

病弱だった幼少の頃、家康が調合した薬を飲んで体調が快復したり、家光の将軍就任をサポートしてくれたり、

  • 家康の命日
    :元和2年4月17日
  • 家光の誕生日
    :慶長9年7月17日

が同じ「17日」であることなどから、おじいちゃん(家康)大好きだった家光。

常時持ち歩いていたお守りの中には、

大権現(家康)様にあやかりたい
私は大権現様のような二世・・将軍になりたい

との言葉を自らしたためるなど、正に神格化していたご様子。

天海主導の元で日光東照宮を改築させ、ほぼ今の豪華な形に完成させたのも家光将軍期のことでした。

逆に、家光自身は三代目の将軍なのに

徳川家光
徳川家光
(徳川)二世

と自称したり、父・秀忠の喪中にもかかわらず祖父・家康の法要に出かけていたりと、弟・国松びいきだった父・秀忠のことは本当によく思っていなかったそう。

伊達政宗

伊達政宗

戦の実体験話が好きで、特に伊達政宗に対しては、

徳川家光
徳川家光
親父殿

と呼ぶほど慕っていたとか。

伊達政宗に対して大名としては異例の厚遇もしております。

徳川家光を語る言葉

言葉

将軍像

家康は全て自分で決めた。

秀忠はそれには及ばなかったが、半分は自分で決めた。

家光は全て重臣任せであった。

by 小説家・海音寺潮五郎

金銭感覚

家康で倹約し、

秀忠で貯め、

家光で一気に散財した。

徳川家光の女性関係・色恋事情

若い時はとにかく男色

女性事情

江戸時代は仏教の教えもあり男色は珍しくもありませんでしたが、どちらかと言うと

歴史家
年長者が若い美男子をかわいがる傾向が多かった

ものの、家光の場合は13〜14歳の頃から男色に目覚めており、可愛がられる方を好んだとか。

歌舞伎にハマり自分でも化粧をしていたとされ、男らしい男を好んだご様子。

そんな家光の男色恋愛傾向をいくつかご紹介。

徹底的に尽くすタイプ

古山師重画/ 男色秘戯画帖男色模様

気に入った相手が見つかると、

  • 年齢等関係なく領地をあてがう
  • こっそりお城を抜け出して、相手の家まで自ら出向く
  • 家臣たちの前でも相手に対して明らかに態度が違う

などなど、徹底的に熱を上げるのが家光流。

色恋多き御仁

男色絵図

家光が男色の素質を開花させ、関係を持ったとされる相手は20人をくだらないとか。

結構嫉妬深い

散歩

  • いい感じになった男に実は女がいると分かると位を格下げ
  • 自分と付き合ってる最中に相手が奥さんとの間に子ども儲けたことを知ると領地没収
  • 相手が他の男と二股かけようものなら打首

と、結構嫉妬深く

  • 気に入った男性に身体の関係を拒否されたら追い回して惨殺

するなど

家光の近侍や従事者で不審な死を遂げる者が少なくなかった
と噂になる程だったそう。

お万の方との出会いが転機

出典:京都西山善峯寺永光院 お万の方

30代半ばを過ぎても男色一辺倒で、子どもがいなかったことを案じたのが乳母・春日局

全国から美女と呼ばれる女性を片っ端から集めて、どうにか家光にその気になってもらおうとするも、家光の好みとは違ったのか、始めはなかなか成果が出ず。

そんな中、家光が気を留めたのが

  • お万の方
    :後の永光院

でした。

ボーシッシュで美少年系な出で立ちがよかったか、ここから家光は一気に女性に目覚め始めた模様。

残念ながらお万の方との間に子は授からずも、初子が38歳と当時では異例とも言える遅さながら、以後それぞれ別々の側室に第四代・家綱、第五代・綱吉と続く子が産まれたことから、

歴史家
家光の男色を改心させたお万の方の影響は、その後の日本史を見ると大きいのでは

と評価する歴史家は多数。

「玉の輿」の由来

出典:長谷寺
桂昌院

女性がお金持ちの男性と結婚して自身の生活ステータスを一気に上げたりすることを

玉の輿

と言ったりしますが、この言葉の由来とされるのが家光の側室の一人のお玉

お玉は京都にあった八百屋の娘ながら時の将軍・家光に見初められます。

当時はまだ相手の身分や格式が重んじられていた時代、

歴史家
仮に側室になるにも、建前上とはいえ相応の身分が必要

とされておりました。

そこでお玉は格も高く由緒あった京都の大店の家に養女として出されます。

そこから御輿みこしに乗って江戸まで赴いたことから、

玉の輿

と呼ばれるようになったそう。

諸説あり

ちなみに、お玉は第五代将軍・徳川綱吉の母であり、後の

桂昌院
桂昌院

となる人物でもあります。

実質的な大奥誕生

楊洲周延画「千代田の大奥」大奥

二代将軍・徳川秀忠の時から大奥としての場所はありましたが、春日局が家光に跡取りができないことを案じ、

いつでも将軍のとぎが出来るよう女性を集めて囲ったシステム

が、

歴史家
現在イメージされる大奥の実質的なはじまり

とされております。

徳川家光の性格や人柄が垣間見れるエピソード

異例の将軍宣下

マイクスピーチ

家光が征夷大将軍に就任した後に、諸国の大名を江戸城に呼び寄せて言ったとされる言葉。

徳川家光

貴殿らは祖父(家康)や父(秀忠)と親交があり、ひいきにされる者もいたかもしれぬ。

が、貴殿らと余は親しくもないし、貴殿らのおかげで将軍になれたわけではない。

余は生まれながらの将軍である

よって貴殿らがこれまで祖父や父とどのような関係であったかは関係ない。

今後余の一家来として働いてもらう。

これに不服があれば今すぐ国許へ帰り弓矢を取るがよい。

我が徳川800万石で余自らお相手致す。
(意訳)

と異例中の異例で宣戦布告とも言える発言を。

  • 幼少期は病弱だった
  • 家臣のほとんどは弟・国松びいきだった

のに加えて、

今後ナメられないように、と伊達政宗がアドバイスしたのでは…?

などの背景があるものの、当時20歳と若く血気盛んな怖いもの知らず振りが伺える言葉として残っております。

お吸い物の中の砂

お吸い物

家光が鷹狩りをしていたときのこと。

その日は強風が吹き荒れ成果なく、家光は不機嫌だったそう。

鷹狩りを終え近くの寺で食事をしたところ、出されたお吸い物の中に砂が入っていました。

不機嫌だった家光は、お吸い物の中に砂が混じっていたことに怒り

徳川家光
徳川家光
台所頭に腹を切らせよ

と家臣に命令。

台所頭
給仕長、料理長

切腹を言い渡された台所頭は、

給仕

決して御膳に砂が入っていたわけではございませぬ。

今日のような風の強い日に上様が御口をすすがずに召されましたから、砂をかまれたと思われます。

口をすすがれ、それでも砂をかまれましたのならば、首をはねられるなり腹を切るなり仰せに従います。

と進言。

結果は台所頭の言うとおりで、家光はこの申し開きを賞賛し陳謝を込めて褒美を与えたそう。

やはり強気な姿勢ながら、意見を聞く耳はしっかりと持っていたご様子。
Check!

息子である第四代将軍・徳川家綱との性格の対比も面白いエピソード

徳川家光の趣味:墨絵

割と墨絵を好んでいたとされる家光。

家臣に自分の描いた墨絵をあげていたそうで、実際に家光が描いた墨絵がいくつか発見されています。

そんな家光画伯の作品を何点か。

家光画:「うさぎ図」家光画:「兎図」
家光画:「鳳凰図」
家光画:「鳳凰図」
家光画:「雄鶏図」
家光画:「雄鶏図」
家光画:「鶏図」
家光画:「鶏図」
家光画:「ふくろう図」
家光画:「梟図」

※ 府中美術館展示
出典:德川記念財団蔵
下関市長府博物館

Check!

息子である四代将軍・徳川家綱も描いている「雄鶏図」

備考と参照

  • この記事は2018年までに分かっている史料等や諸記事を元に書かれております。
  • 今後見つかるかもしれない史料等によっては、全く違う内容になる可能性がある旨ご了承くださいませ。

徳川家光の次の代・前の代の将軍

参考文献など

  • 『徳川将軍列伝』
    著・北島正元
    出・秋田書店
  • 『徳川将軍家十五代のカルテ』
    著・篠田達明
    出・新潮新書
  • 『徳川十五代史』
    著・内藤耻叟
    出・新人物往来社
  • 『徳川名君名臣言行録』
    著・岡谷繁実、安藤英男
    出・新人物往来社
  • 『将軍の私生活』
    著・三田村鳶魚
    出・グーテンベルク21
  • 『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』
    著・鈴木尚
    出・東京大学出版会
  • 『徳川将軍家墓碑総覧』
    著・秋元茂陽
    出・星雲社
  • 『東照大権現祝詞』
    著・春日局筆?
    出・日光山輪王寺所蔵
  • 『徳川家光』
    著・山岡荘八
    出・講談社
  • 『徳川家光』
    著・藤井譲治
    出・吉川弘文館
  • 『徳川家光:江戸人物伝』
    著・すぎたとおる、中島健志
    出・ポプラ社
  • 『徳川家光 英明・武勇の三代将軍』
    著・羽生道英
    出・PHP文庫
  • 『寛永時代』
    著・山本博文
    出・日本歴史叢書

などなど他諸冊

徳川将軍家のご参考までに

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