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徳川家茂の性格、色恋、人柄エピソード選などの雑学的プロフィール

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徳川家茂

江戸幕府第14代将軍徳川とくがわ家茂いえもちに関して分かっている

を中心に記載しております。

知っていても特に何かが変わるわけではない…けど、いつかどこかで何かに役立つかもしれない息抜き専用雑学としてご認識いただければ幸いです。

徳川家光の性格や特徴

巻物

頭が良い

見た目も良い

優しくて気が利くし、機転も利く

純粋で真面目な性格

努力家

責任感が強い

思慮深い

家臣や有力者からの人望が厚い

ちょっと病弱

割と涙もろい

大の甘党

虫歯が多い

政略結婚ながら愛妻家で一途

辞意を朝廷に上申した唯一の将軍

など

徳川家光の人物像を深掘り

深掘り

幕末動乱の混迷期にあって本人の意思とは裏腹に幕臣の権力争いの末、13歳で将軍職に担ぎあげられた徳川家茂。

自分の趣味や好きなことを諦め、将軍職を全うしようと勉強に執政にと励んでいたご様子。

聡明な風貌や出で立ちに加え、頭脳明晰な上に思慮深く素直で真面目な性格から

家臣 家臣 家臣だけでなく有力者からの人望はとても厚かった

そう。

特にかつ海舟かいしゅうとはお互いに信頼関係があり、徳川家茂が亡くなった際には

勝海舟 勝海舟 徳川家、今日滅ぶ

とまで自分の日記に記すほど徳川家茂を高く買っていました。

また、徳川家茂は

徳川家茂 徳川家茂 大の甘党

  • ようかん
  • 氷砂糖
  • 金平糖
  • カステラ
  • おしるこ

などを好むも、それが原因からか発見された遺骨の歯は虫歯だらけでした。

若年ながら激動の時代を懸命に立ち向かおうとする徳川家茂を、

歴史家 歴史家 時代が違っていれば高い英名を遺しただろう

と見る歴史学者は多め。

徳川家茂の女性関係 色恋事情

着物女性たちの花見

側室をとらなかった唯一の愛妻家将軍

幕府の権威が失速する中で

侍 当時冷え切っていた朝廷との関係を改善させ、権力維持を図ろう

との政策から公武合体にて公家出身の皇女・和宮かずのみやとの政略結婚を余儀なくされる徳川家茂。

歴代将軍の多くが

歴史家 歴史家 正室とは形式的な結婚をして、実際には側室を何人も持つ傾向があった

のに対して、家茂自身は政略結婚とはいえ和宮を一途に想い大切にしておりました。

加えて側室を持たなかったことか

徳川家茂 徳川家茂 成人した将軍の中で、公式にも非公式にも側室を持たなかった唯一の将軍

となっております。

そんな徳川家茂が和宮を想う気持ちが伺えるエピソードを2つほど。

気遣い上手でマメだった

和宮降嫁

和宮降嫁の様子

出典:『和宮江戸下向絵巻』

徳川家茂が公務で出かけた際には、ほぼ必ずと言っていいほど和宮に贈り物やお土産を贈っておりました。

公務が長期になると体調を気遣うなどの手紙を送ったりと

歴史家 歴史家 マメで細やかな気配りができる男

だったと目されております。

和宮自身も最初は降嫁と呼ばれる結婚を嫌がっていたものの、家茂の優しい心配りに次第に打ち解けていったそう。

降嫁

皇族の女性が臣下に嫁ぐこと

結婚から数年経つ頃には周りの家臣たちから見ても2人の関係は

家臣 とても良好だった

とされ、おしどり夫婦だったご様子。

歴代徳川将軍の中でも

歴史家 歴史家 正室との夫婦仲が最も良かった将軍様

とみる歴史家が多数。

嫁姑問題も円満に

徳川家茂の養母にあたる天璋院てんしょういん(篤姫あつひめ)と家茂の妻・和宮の間には、当初

  • 和宮からのご挨拶代わりに天璋院に送られた包みが呼び捨て書きだった
  • 公家出身で公家のしきたりを重んじようとする和宮を天璋院が拒んだ
  • 2人の上座、下座を巡る座り位置

等々の嫁姑問題的な悶着があったとされるも、家茂が江戸城内にいるときはどちらを責めるわけでも取り立てるでもなく

家臣 家臣 しっかりと話合うことによって2人の間を取り持っていた

そう。

徳川家茂の気遣いあって、割と程なくして天璋院と和宮の関係も良好なものになっております。

徳川家茂の性格や人柄が垣間見れるエピソード

書

思慮深く素直で真面目な性格もあり、

家臣 家臣 家臣たちからの人望がとても厚かった

とされる徳川家茂。

そんな徳川家茂が家臣を想う気持ちや家臣が家茂を慕っていたと伺えるエピソードをいくつかご紹介。

素直な性格

元服

とある元服の様子

徳川家茂がまだ幼名の菊千代たけちよを名乗っていた時のこと。

幼少期はちょっと内気で割と泣き虫だったそうで、元服のため時の第12代将軍 徳川とくがわ家慶いえよし家祥いえさち(後の第13代将軍 家定いえさだ)親子のいる江戸城に向かうことに。

成人を表す通過儀礼のひとつで、江戸時代では数え年で

12〜16歳頃

18〜20歳頃

に行われるのが割と一般的でした。

また、男子は元服時に新たな名を賜ることが慣例となっておりました。

心配した竹千代(徳川家茂)の教育係が

女性 今日はあなた様にとって大事な日ですから泣いてはいけませんよ

と言って送り出しました。

が、徳川家慶・家祥親子と初対面だったからか儀式の空気感に圧されてか、式の最中に竹千代(徳川家茂)はガン泣き。

徳川家慶も困惑するほどの泣きっぷりだったとされるも、竹千代(徳川家茂)は

徳川家茂 新たに慶福よしとみの名を賜る

などなんとか儀式は最後までやり遂げ、無事元服を果たしております。

元服も終わり藩邸に戻るやいなや、真っ先に教育係のところへ飛んでいき

徳川家茂 徳川家茂 泣いちゃった

と笑顔で一言。

その正直で愛くるしい告白に、教育係のみならずその場にいたもの皆決して家茂を叱れなかったそう。

家臣を気遣う心

稽古

徳川家茂が将軍となったある時、家臣たちが武芸に励む様子を視察することに。

将軍がお越しとあって、普段よりも気合が入る面々。

ところが、ふとしたはずみで勢い余った家臣のひとりが観覧していた徳川家茂の手に乗っかる形で思いっきりぶつかってしまう事態が発生…。

将軍様への無礼とあって、額を床にぶつけんばかりの勢いで必死に謝る家臣と静まりかえる他の面々。

しかし徳川家茂は微動だにせず

徳川家茂 徳川家茂 大事ない

と一言。

事なきを得たと床にひれ伏して謝っていた家臣が顔を上げて、ふと徳川家茂の顔を伺うと、目には溢れんばかりの涙が溜まっておりました。

本当はぶつかられ踏みつけられた箇所が痛かったものの、徳川家茂が騒げば家臣が罰せられることを危惧して必死に堪えていたご様子。

将軍様の温情を感じた家臣は、今度こそ額を床に擦り付け感謝の言葉とともに泣いたそう。

先生が泣いた理由

戸川安清

戸川安清 肖像

書の達人として知られていた戸川とがわ安清やすずみは、70歳を過ぎた老齢ながら推されて徳川家茂の習字の先生を務めておりました。

徳川家茂に書を教えていたある時、家茂が墨をるための水を持って笑いながらいきなり立ち上がりました。

立ち上がるやいなや、突然持っていた水を戸川安清の頭の上からかけ、

徳川家茂 徳川家茂 疲れた、あとは明日にしよう

との言葉を残してその場を出て行ってしまいました。

その場にいた他の家臣たちが

侍 全くもっていつもの家茂様らしからぬ悪ふざけだ…

と驚きいぶかしみながら水をかけられた戸川安清に近寄ると、戸川安清は泣いておりました。

これにも驚いた家臣たちは必死に戸川安清をなぐさめていると、今度は戸川安清から思わぬ言葉が。

実は戸川安清、老齢のためふとした弾みで講義中に

戸川安清 戸川安清 失禁してしまっていた…

ことを家臣たちに打ち明けます。

江戸時代当時、

歴史家 歴史家 将軍の御前での粗相は厳罰を免れなかった

ので、それを誰よりも早く察した徳川家茂は自分の悪ふざけのごとくわざと水をかけて失禁で濡れた衣を隠し

徳川家茂 徳川家茂 あとは明日にしよう

と言うことで、

明日も変わらず出仕するように

と、不問に処することを暗に伝えておりました。

戸川安清が泣いていたのは、

戸川安清 戸川安清 家茂様のその優しさと細やかな配慮に感激したため

だったといい、その言葉を聞いた家臣たちの中にも徳川家茂の思慮深さに涙する者さえいたそう。

ナポレオン3世、喜ぶ

ナポレオン3世

ナポレオン3世 肖像

当時フランスで生糸の元となる蚕が大量に死んでしまったことを聞いた徳川家茂。

徳川家茂 徳川家茂 蚕がいなくては(生糸が作れず)フランス国王も庶民も困る

からと、日本の蚕を集めてフランスに送らせております。

予期しなかった善意と心遣いにナポレオン3世は大変喜び、日本から送られた蚕を昆虫学者のファーブル氏たち専門家に管理を任せ大事に扱いました。

この交流もあり、

歴史家 歴史家 フランスによる徳川幕府への肩入れは後年にまで続いていく

こととなりました。

勝海舟との信頼関係

勝海舟

勝海舟

ある時、徳川家茂が勝海舟とともに大阪近海を船で航行していた時のこと。

徳川家茂 徳川家茂 勝よ、あそこに浮かぶ尖った山々は何というとこだ?

と勝に尋ねたそう。

すると勝は笑いながら

勝海舟 勝海舟
殿はおかしなことを仰る。

あれこそは紀州大島(=紀伊大島)でありますぞ。

よもやご自身ゆかりの土地の景色をご承知でないことはありますまい。

と返したそう。

その言葉に家茂は顔を赤らめて恥ずかしがったとか。

徳川家茂は紀州徳川家の出自でありながら、幼少期から江戸の紀伊藩邸で過ごしてきたため、

歴史家 歴史家 紀伊の景色を家茂がほとんど知らないことを、勝も分かってて言った言葉

だとされており、2人は冗談が言い合えるほどの仲だったことが伺えるエピソードとして残っております。

そんな勝に対して

徳川家茂 徳川家茂 海のことは勝に任せよ

と絶大な信頼を寄せており、勝も

勝海舟 勝海舟 御若年の殿なれど、真に英主の気風漂う御仁

と徳川家茂のことを絶賛しております。

徳川家茂が流した涙のわけ

水玉

黒船来航後から続いていた

  • 徳川家の権威失墜
  • 苛烈極める尊皇攘夷の動き
  • 各藩勢力の拡大

などが幾つも重なる動乱の江戸混迷期の中で、幕臣たちの思惑から将軍に担ぎ上げられた徳川家茂。

そんな中でも必死に学び、人を思いやり、将軍職を全うすべく必死に立ち向かっておりました。

…が、振り回され続けているばかりか、将軍である自分を差し置いて勝手に事を進めていく家臣たちを見て、ある時

徳川家茂 徳川家茂 何とも致し呉候くれそうろう

意訳

もう何とでもしてくれ…

と涙を流して悔しがりました。

また、政治的決定権が幕府に委ねられていた当時、

巻物 兵庫開港を決定した幕臣の老中が、朝廷によって処罰される

ことがありました。

ここでも将軍である徳川家茂の了承を得ず朝廷が勝手に意思決定したことに対して、家茂は

徳川家茂 徳川家茂 将軍職の辞意

を自ら朝廷に上申しております。

徳川家茂の辞意表明に時の第121代孝明こうめい天皇てんのうは大いに驚き慌て、

孝明天皇 孝明天皇 以後、朝廷側から幕府人事への干渉はしない

との約束とともに辞意を取り下げさせております。

余談
歴代の徳川将軍の中で

歴史家 歴史家 将軍職の辞意を上申したのは、徳川家茂ただ一人

となっております。

多くの人に愛された徳川家茂

徳川家茂

川村清雄作「徳川家茂 像」

動乱な江戸混迷期の中を必死に立ち向かっていた徳川家茂でしたが、20歳の若さで急性心不全が原因となり他界してしまいます…。

その一報を聞いた勝海舟は、

勝海舟 勝海舟 心腸寸断の思い…

と深く悲しみ 、自身の日記には

書 徳川家、今日滅ぶ

とまでしたためるほど家茂の死を嘆いております。

また、家茂急逝の報を聞いて駆けつけた重臣たちも、

家臣 家臣 誰一人言葉を発せず、ただただすすり泣く音が1日中続いた

そう…。

将軍継嗣問題の際には徳川家茂と相対する立場にあった松平春嶽でさえ、

松平春嶽 松平春嶽 この君のために泣かずは木や石と同じで人にあらず

と徳川家茂を称えるほどでした。

徳川家茂の雑学的プロフィール

徳川家茂

徳川家茂 肖像

人物

  • 生誕
  • 1846年7月17日
  • 旧暦:弘化3年閏5月24日
  • 星座
  • かに座
  • 身長
  • 約151〜156cm

江戸時代の平均身長

155〜160cm

家系

  • 氏族
  • 紀州徳川家
  • 幼名
  • 菊千代きくちよ
    慶福よしとみ → 家茂
  • 父親
  • 徳川とくがわ斉順なりゆき
  • 母親
  • 実成院じつじょういん

将軍期間

奥方

子ども

  • 子宝数
  • 0人

晩年

江戸時代の平均寿命

45〜50歳

徳川家茂将軍期の主な世情

徳川家茂将軍期の主な施策

将軍継嗣問題に巻き込まれる

公武合体による政略結婚

文久の改革

第3代将軍・徳川とくがわ家光いえみつ以来の上洛を行う

不受理ながら辞表を提出した唯一の将軍

など

国内の主な出来事

桜田門外の変1860(安政7)年

坂下門外の変1862(文久2)年

生麦事件1862(文久2)年

薩英戦争1863(文久3)年

新撰組による池田屋事件1864(元治元)年

生麦事件1862(文久2)年

禁門の変蛤御門の変1864(元治元)年

薩長同盟が結ばれる1866(慶応2)年

など

徳川家茂将軍期の世界情勢

自然科学社のC・ダーウィン氏が
種の起源を発表1859(安政6)年

アメリカで
アメリカ南北戦争が起こる1861(文久元)年

リンカーン米大統領による
黒人奴隷解放宣言が行われる1863(文久3)年

生物学者のG・J・メンデル氏が
遺伝の法則を発表1865(慶応元)年

など

徳川家茂の次代将軍、先代将軍

当記事の参照や備考

徳川記念財団

国立国会図書館

江戸東京博物館

一部個別に記載

掲載内容に関して

年代や星座等は基本的に新暦換算で記載しております。

年数や年齢は代による暦の違いや数え年の違いから、出典により±1〜3年の誤差がある場合もございます。

掲載画像はあくまで参考イメージとしてご覧くださいませ。

当記事は2022年末までに分かっている史料等や諸記事を元に記載しております。

今後見つかるかもしれない史料等によっては、全く違う内容になる可能性がある旨ご了承くださいませ。

参考文献など

※ 以下順不同敬称略

  • 『徳川将軍列伝』著:北島正元版:秋田書店,1989/12/1
  • 『徳川将軍家十五代のカルテ』著:篠田達明版:新潮新書,2005/5/16
  • 『徳川十五代史』著:内藤耻叟版:新人物往来社,1985/11/1
  • 『徳川名君名臣言行録』著:岡谷繁実、安藤英男版:新人物往来社,1981/1/1
  • 『将軍の私生活』著:三田村鳶魚版:グーテンベルク21,2016/1/15
  • 『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』著:鈴木尚版:東京大学出版会,1985/12/1
  • 『徳川将軍家墓碑総覧』著:秋元茂陽版:星雲社,2008/1/10
  • 『幕末小史』著:戸川残花版:国立公文書館,1978/12/1
  • 『近世日本国民史 和宮御降嫁 久世・安藤執政時代』著:徳富蘇峰版:講談社,2013/10/18
  • 『海舟語録』著:勝海舟編:江藤淳、松浦玲版:講談社,2004/10/9
  • 『徳川家茂とその時代』版:徳川記念財団談社

など他諸冊

徳川将軍家のご参考までに

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