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徳川家継の性格、色恋、人柄エピソード選などの雑学的プロフィール

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徳川家継

江戸幕府第7代将軍・徳川とくがわ家継いえつぐに関して分かってる

を中心に記載しております。

知っていても特に何かが変わるわけではない…けど、いつかどこかで何かに役立つかもしれない息抜き専用雑学としてご認識いただければ幸いです。

徳川家継の性格や特徴

徳川家継 肖像画

徳川家継 肖像画

出典:徳川記念財団

歴代最年少となる4歳で将軍に就任

朝廷に元服してもらった徳川家唯一の将軍

頭が良い

将来有望

病弱がち

心優しい

慈悲深い

父・徳川とくがわ家宣いえのぶ好き

間部まなべ詮房あきふさを慕う

年齢を考えると身長は大きかった?

歴代最年少となる8歳で逝去

など

徳川家継将軍期の主な施策

正徳の治新井あらい白石はくせき間部詮房らが主導

徳川家継の人物像を深掘り

文書

歴代将軍最年少となる4歳で将軍に就任し、同じく歴代将軍最年少となる8歳でご逝去。

年齢は±1〜3前後の誤差あり

見た目、顔立ちは父であり先代の第6代将軍・徳川家宣に似て凛々しく聡明で将来有望だったとされる徳川家継。

時に大人顔負けの振る舞いを見せるなど、

家臣 家臣 幼くして自分の立場をしっかり理解していた

そう。

徳川家継4歳の時に父・家宣が他界した後、側用人の間部詮房を父のように慕っており、

家臣 家臣 間部詮房のちょっと厳しい言いつけもきちんと守っていた

とか。

身長の135cmは位牌を参考にして計測されておりますが、8歳という年齢を考えれば

歴史家 歴史家 当時にしてはとても大きい背丈だった

と推察されております。

徳川家継の女性関係 色恋事情

女性事情

婚約者1人のみ

若くして将軍になり正室候補としての婚約者はいるも、徳川家継自身が早世そうせいしてしまったことで、正式な婚姻自体が結ばれておらず、歴代の徳川将軍家の中で

徳川家継 徳川家継 唯一未婚の将軍

となっております。

早世

10歳未満で亡くなってしまうこと

徳川家継の性格や人柄が垣間見れるエピソード

礼をわきまえていた

お辞儀

幼い頃より、

家臣 家臣 父である6代将軍・家宣様に似て、聡明で立ち振舞も上品だった

とされる徳川家継。

将軍となってまだ間もないある日のこと。

公家が家継の元へ謁見し深々と頭を下げたのに対して、家継は軽く会釈しただけで見送ったそう。

その姿は幼少ながら将軍としてとても自然な振る舞いであり、大人顔負けのそれだったとか。

間部詮房との親交

間部詮房

間部詮房

側用人である間部まなべ詮房あきふさを父のように慕っていた徳川家継。

詮房のことを官職の「越前守えちぜんのかみ」からとってえちと呼び、諸用以外は常に行動を共にしていたそう。

ある時、間部詮房が諸用の外出で帰りが遅くなると、

徳川家継 徳川家継 えちを迎えに出よう

と言って家継自ら詮房の帰りを玄関先で待ち、詮房が帰ってくると喜んで抱き付いたほどだったとか。

また、徳川家継に対して間部詮房は優しくも厳しい教育をしていたとされ、詮房不在時に家継がぐずったりしても

家臣 家臣 詮房様が戻られます(ウソ)

と言うと、変な姿を見られまいとすぐおとなしくなったそう。

一挙手一投足に皆感涙

水玉

元来父である先代将軍・徳川家宣に似て慈悲深く心優しい幼年だった徳川家継。

そんな家継に周りの従事や家臣たちが心打たれる場面がいくつかエピソードとして残っています。

心優しい家継

お膳

ある晩の御膳を食べようと箸を持ったときのこと。

その日あまり姿が見えなかった大老・井伊いい直興なおきを気にかけ、ふと

徳川家継 徳川家継 じいは食事済んだかな?

と一言。

じい

井伊直興に対する家継の呼び名

この時井伊直興は風邪をこじらせており一足早く早退しておりました。

直興が早退していたことを別の家臣から聞くと、

徳川家継 徳川家継 もし食事が摂れてないようだったら、これをあげてください

と自分の食事をそのまま井伊直興に届けるように伝えたそう。

体調の優れない家臣を気遣う家継にその場にいた者たちは皆胸打たれた模様。

物憂げな家継

居間

父・徳川家宣と良好な親子関係だったとされる徳川家継。

父・家宣が亡くなってしばらくした時のこと。

家臣の一人が良かれと思って家継を父・家宣が使っていた居間に連れて行きました。

が、父・家宣との会話を思い出し家継は涙を浮かべてふさぎ込んでしまうことに…。

その物憂げな姿は、その場で見ていた家臣たちも皆もらい泣きしてしまうほどだったそう。

あどけない家継

能舞台

江戸城内にある能舞台での一幕。

父を想い慕っていた徳川家継は、能楽が好きで自ら舞の練習をしていた父・徳川家宣の姿を思い出し、自ら能舞台に上がると、

徳川家継 徳川家継 ととぽむ、ととぽむ

と言いながら舞う素振りを見せ、父・家宣の真似事を。

そのあどけない姿を見た家臣たちは一同皆感涙。

ととぽむ

『徳川実記抄録』では父・徳川家宣を指している言葉とされております

朝廷に元服された唯一の将軍

庭

父であり先代の第6代将軍・徳川家宣が亡くなった時、次期将軍とされていた徳川家継はまだ幼名・鍋松なべまつを名乗っており元服前でした。

当時の徳川将軍家の慣例では、

葵の御紋 徳川将軍家 次期将軍は父である将軍から新たな名をもらい元服した者

との習わしがありました。

父・家宣が鍋松の元服前に亡くなってしまったことで、鍋松に元服を行える人物がいなくなる事態に…。

そこで異例中の異例として将軍よりも身分の高い朝廷に鍋松の元服を依頼。

このため徳川将軍家の中で徳川家継は

徳川家継 徳川家継 朝廷に元服してもらった唯一の将軍

となります。

幼くして将軍になった家継ですが、朝廷から授けられた未来ある名前とは裏腹に8歳というあまりにも若い年齢で早世してしまうこととなりました。

成人を表す通過儀礼のひとつで江戸時代では数え年で

  • 男子:12〜16歳頃
  • 女子:18〜20歳頃

に行われるのが割と一般的でした。

また、

  • 「元」
  • 頭、首を指す
  • 「服」
  • 「着る」という意味

から頭に冠をつけるという意味で、

  • 加冠の儀
  • 初冠ういこうぶり

とも言われます。

特に江戸時代には元服と同時に新たな名を授かるパターンが多く見受けられます。

徳川家継の雑学的プロフィール

人物

  • 生誕
  • 1709年8月8日
  • 旧暦:宝永6年7月3日
  • 星座
  • しし座
  • 身長
  • 約135cm

江戸時代の平均身長

155〜160cm

家系

  • 血筋
  • 甲府徳川家
  • 幼名
  • 鍋松なべまつ
  • 父親
  • 徳川とくがわ家宣いえのぶ
  • の四男
  • 母親
  • 喜代きよかた
  • 月光院げっこういん

将軍期間

奥方

  • 奥方数
  • 0人

子ども

  • 子宝数
  • 0人

晩年

江戸時代の平均寿命

45〜50歳

徳川家継将軍期の主な世情

国内の主な出来事

貝原益軒が
養生訓を発表1713(正徳3)年

江島生島事件1714(正徳4)年

など

徳川家継将軍期の世界情勢

清で
康煕こうき字典が完成1716(正徳6)年

など

徳川家継の次代将軍、先代将軍

備考と参照

掲載内容に関して

年代や星座等は基本的に新暦換算で記載しております。

年数や年齢は代による暦の違いや数え年の違いから、出典により±1〜3年の誤差がある場合もございます。

当記事は2022年末までに分かっている史料等や諸記事を元に記載しております。

今後見つかるかもしれない史料等によっては、全く違う内容になる可能性がある旨ご了承くださいませ。

参考文献など

※ 以下順不同敬称略

  • 『徳川将軍列伝』著:北島正元版:秋田書店,1989/12/1
  • 『徳川将軍家十五代のカルテ』著:篠田達明版:新潮新書,2005/5/16
  • 『徳川十五代史』著:内藤耻叟版:新人物往来社,1985/11/1
  • 『徳川名君名臣言行録』著:岡谷繁実、安藤英男版:新人物往来社,1981/1/1
  • 『将軍の私生活』著:三田村鳶魚版:グーテンベルク21,2016/1/15
  • 『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』著:鈴木尚版:東京大学出版会,1985/12/1
  • 『徳川将軍家墓碑総覧』著:秋元茂陽版:星雲社,2008/1/10
  • 『将軍と側用人の政治 新書・江戸時代1』著:大石慎三郎蔵:講談社,1995/6/1
  • 『折たく柴の記』著:新井白石訳:松村明版:岩波文庫,1999/12/16
  • 『徳川実記抄録』出:国立公文書館

など他諸冊

徳川将軍家のご参考までに

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