試験には出ない 徳川吉宗の雑学的プロフィール

徳川吉宗

多分試験には出ないし、おそらく仕事にも役に立たないし、知ってても特に何か変わるわけではないけど、いつかどこかで何かに役立つかもしれない息抜き専用雑学、

江戸幕府【八代将軍・徳川吉宗よしむね】編。

徳川吉宗に関して分かってる性格・特徴・趣味・嗜好や、女性関係にちょっとしたエピソードなどを雑学的視点のプロフィールとして記載しています。

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徳川吉宗の雑学的プロフィール

徳川吉宗
  • 年代や星座等は新暦換算で記述しています。
  • 年数や年齢は代による暦の違いや数え年の違いから、出典により±1〜3年の誤差があると思われます。
  • 身長は愛知県岡崎市(三河国)の大樹寺にある等身大とされる位牌と、増上寺の遺骨改葬時調査記録を参考にしています。

吉宗の簡易プロフィール

徳川吉宗をざっとおさらい

  • 享保の改革
  • 質素倹約を実施
  • 米将軍
  • 目安箱の設置
  • 公事方御定書の発布
  • 小石川養成所を建てる
  • 御三家(尾張・紀州・水戸の各徳川家)の下に、
    御三卿(徳川家の分家とする田安家・一橋家・清水家)を新設

吉宗将軍期の主な出来事

  • 享保の大飢饉
  • 国産の朝鮮人参が広まる

などなど

吉宗将軍期の世界情勢

  • スウィフト著『ガリバー旅行記』完成
  • ベーリング海峡の発見

などなど

吉宗の特徴・性格・趣味・嗜好

  • 「暴れん坊将軍」のモデル
  • 名君の誉れ高い
  • 中興の祖
  • 勤勉家
  • 切れ者
  • 好奇心旺盛でアグレッシブ
  • 自己プロディース力が高い
  • 自分の親族には甘い
  • 庶民からは人気ない
  • 脳卒中を2度経験
  • 若い頃は女性に手が早い

吉宗の人物像

出典:徳川吉宗肖像画/川村清雄画 徳川記念財団蔵別画・徳川吉宗

困窮していた幕府の財政を立て直し、文治政治で広がった幕藩体制の矛盾やひずみを整えた手腕から

歴代将軍の中でもトップクラスの実力者

と見る歴史家も多く、

また、以後の将軍が、吉宗が新設した御三卿出身も多いことから、第二期江戸幕府の始まりとして「中興の祖」とも呼ばれる。

が、幼いころはやんちゃで手もつけられないほど本当に暴れん坊だったそう。

歴代の将軍が執り行った施政をしっかり学び、良いことは進め悪しきは排除する方針で、特に徳川家康徳川綱吉の考え方や政策に共感していた模様。

五代将軍・綱吉好きで、六、七代将軍の側用人だった間部詮房や新井白石の政策方針には否定的な考え。

しかし、鷹狩を復活させたり自分でもやったりで腕も相当良かったとされ、必ずしも綱吉絶対主義ではなかったご様子。

武芸に関しても自ら実践するタイプで、結構なアクティブ派

目安箱を設け庶民の意見を採り入れたり、小石川養成所を建てたりと庶民の立場に寄り添おうとするも、

衣・食・住の倹約を半ば強引に促したため、庶民からの人気度は低かった

脳卒中(一度目、脳血管障害とも)を起こし、リハビリが上手くいっているかに思えた途中で不運にも再発性の脳卒中(二度目)に倒れこの世を去る。

吉宗の女性関係 色恋事情

女性事情

お盛んな肉食系

将軍になる前の紀州時代は、相当な女好きで肉食系な暴れん坊(棒?)だったご様子の吉宗。

お出かけ途中、休憩がてらに寄った茶屋の娘に手を出したり、通りかかった農家で働く女性を気に入り側女そばめにしたり、ちょっとでも気に入ればところ構わず片っ端から手を出すのが吉宗流。

ストライクゾーンも広く、集められた側女の容姿や性格等は見事なまでにバラバラだったとか。

「覚えがある」

将軍時代、「大岡越前」で有名な名奉行・大岡忠相おおおかただすけの元に「自分は吉宗の子だ」と主張する者が度々現れる。

素性を調べると違うと分かるも、訴え出てくる者の数が少なくなく、疑問を持った忠相が半ば冗談交じりに吉宗に話をしたところ、

吉宗
「覚えがある」

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と全く否定しなかったとか。

以後、訴え出た者の素性調査により時間を割く羽目になり、忠相の業務と心労が増えたご様子。

吉宗の人柄が垣間見れるエピソード

エピソード

「吉宗」という名前

紀州藩主になるに伴い改名した際、かねてより尊敬の念があった五代将軍・綱吉にあやかって「吉」の字をつけたとされています。

「宗」は鎌倉幕府の八代執権・北条時宗から取ったとか。

(紀州徳川家をゆくゆくは徳川家全体の「宗家」にしていく、という意味合いからとの説も)

美女は金が掛かる

庶民にも家臣にも徹底した倹約策を強い、自らもなかなかな倹約ぶりだった吉宗。

倹約策の1つとして、大奥の人員大整理も敢行。

その際に、美女といわれる女性をことごとく解雇していくが、その理由を表向きは

「美女はどこ行っても得するし働き口も縁談もあるだろう」

とするも、本音は

美女は金が掛かる

から、と後日(大御所時代に)本音をぽろり。

飛鳥山、隅田川沿いの桜

飛鳥山の桜

江戸時代の公共事業として進められた治水や埋め立てや町場の整備の一環で、当時上野にしかなかった桜の花見スポットを、別の場所でも花見が楽しめるようにと

  • 飛鳥山(東京・北区)
  • 隅田川沿い

などに桜の木を増やしたのは吉宗。

吉宗陰謀説

灯り

紀州藩主・将軍職それぞれに就く際に、吉宗の他に有力な候補がいたにもかかわらず、相次いで7名も亡くなっていることから、吉宗が暗殺を企てて登りつめたのでは?との見方があります。

紀州藩主になるまで

紀州藩主だった徳川光貞の四男として生まれ、特に養子にも出されず独立もせず家に留まる、いわゆる「部屋住み」で一生を終えても不思議ではない境遇だった吉宗。

特に光貞の長男で吉宗の兄でもある徳川綱教は、五代将軍・綱吉の娘(鶴姫)を奥さんに迎えていて、時期将軍候補の筆頭だった。

が、鶴姫が急逝し綱教も急な病に倒れる。

そのわずか後には藩主だった父・光貞も突然死。

次男は早世していたため三男が紀州藩主となるも、数ヶ月で亡くなってしまい、ある意味奇跡的に吉宗が紀州藩主に就任。

将軍就任まで

七代将軍・家継の早世で跡取りもいなかったことから、将軍候補となる人材が選抜されることに。

この時筆頭だったのが、御三家の中で序列の強かった尾張徳川家。
(当時の序列:尾張 > 紀州 > 水戸)

ところが尾張徳川家で突然の不幸が続く。

尾張藩主であった徳川吉通をはじめ、その弟や息子が次々に亡くなってしまい、尾張徳川家から将軍候補を出せなくなる結果に。

その結果、棚ぼた的に吉宗が八代将軍として江戸に迎えられることとなり、このあまりにも強運ぶりに違和感を感じる方も多く、吉宗陰謀説が根強く残っています。

御庭番の創設

紀州藩主時代に

  • 反逆者の取締り
  • 家臣の補佐

の役割で新たに創られた役職が「御庭番」。

吉宗は紀州藩主時代に御庭番を設置し、将軍となった際にも紀州から江戸に引き立て、江戸幕府政権下でも御庭番制度を採用していることから、

「秘密裡に諜報活動を行った隠密(または暗殺)部隊だったのでは?」

とする見方も。

備考

  • この記事は2015年までに分かっている史料等や諸記事を元に書かれています。
  • 今後見つかるかもしれない史料等によっては、全く違う内容になる可能性がある旨ご了承ください。
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