\ 何の日?雑学 日別一覧 /

徳川吉宗の性格、特徴、趣味、嗜好や女性関係などの雑学的プロフィール

徳川吉宗

試験にはちょっと出づらいし、おそらく仕事には役に立たないし、知ってても特に何かが変わるわけではないけど、いつかどこかで何かに役立つかもしれない息抜き専用雑学、

江戸幕府 八代将軍・徳川吉宗よしむね編。

徳川吉宗に関して分かってる性格、特徴、趣味、嗜好や女性関係にちょっとしたエピソードなどを雑学的プロフィールとして記載しています。

徳川吉宗の雑学的プロフィール

年代や数字に関して

  • 年代や星座等は基本的に新暦換算で記載しております。
  • 年数や年齢は代による暦の違いや数え年の違いから、出典により±1〜3年の誤差がある場合もございます。

徳川吉宗の簡易プロフィール

徳川吉宗

人物

  • 生誕:1684年11月27日生
    旧暦:貞享元年10月21日
  • 星座:いて座
  • 身長:約155.5cm
    :180cm以上だった?との説も

    江戸時代の平均身長
    155〜160cm

家系

  • 氏族:紀州徳川家
  • 幼名:源六
    (通称:新之助)
  • 父親:徳川光貞
  • 母親:浄円院

将軍期間

奥方

子ども

晩年

徳川吉宗をざっとおさらい

「徳川吉宗 肖像画」
出典:徳川記念財団
徳川吉宗 肖像画

  • 「享保の改革」主導者
  • 質素倹約を実施
  • 通称:米将軍
  • 目安箱の設置
  • 公事方御定書の発布
  • 小石川養成所を建てる
  • 大奥の人員大削減
  • 御三家の下に徳川家の分家とする御三卿を新設
    御三家
    尾張、紀州、水戸の各徳川家
    御三卿
    田安家、一橋家、清水家

吉宗将軍期の主な出来事

  • 享保の大飢饉
  • 荻生徂徠が『政談』を発表
  • 青木昆陽の提言により甘藷(≒さつまいも)の栽培を開始
  • 国産の朝鮮人参が広まる

などなど

吉宗将軍期の世界情勢

  • スウィフト著『ガリバー旅行記』が完成
  • ベーリング海峡の発見

などなど

徳川吉宗の性格・特徴・趣味・嗜好

文書

  • 「暴れん坊将軍」のモデル
  • 名君の誉れ高い
  • 中興の祖
  • 勤勉家
  • 切れ者
  • 好奇心旺盛でアグレッシブ
  • 自己プロディース力が高い
  • 有言実行タイプ
  • 武芸に優れる
  • 芸事にも優れる
  • 庶民からの期待大(前期)
  • 庶民からはあまり人気ない(後期)
  • 新しいもの好き
  • 絵画好き
  • 若い頃は女性に手が早い
  • 晩年に脳卒中を2度経験
  • 紀州藩主、将軍就任までの経緯に陰謀説あり

などなど

徳川吉宗の人物像

徳川吉宗

困窮していた幕府の財政を立て直し、文治政治で広がった幕藩体制の矛盾やひずみを整えた手腕から、

歴史家
歴史家
歴代将軍の中でもトップクラスの実力者

と見る歴史家も多く、また、

  • 幕府財政の立て直し
  • 内政の刷新
  • 公共事業や公共施設の開放
  • 初となる御三家出身将軍
  • 以後の将軍が十五代・慶喜を除き吉宗の直系男子であること
  • 全十五代将軍のほぼ中間位置に在位してること

などなど数々の功績や事由から、第二期江戸幕府の始まりとして、

中興の祖
とも称される御仁。

が、幼いころはやんちゃで手もつけられないほど本当に暴れん坊だったそう。

紀州藩時代はやんちゃに加えていろんな意味で暴れん坊だったとか。

頭が良くキレ者だっただけでなく、歴代の将軍が執り行った施政をしっかり学び、良いことは進め悪しきは排除する方針で、特に

  • 徳川家康
  • 徳川綱吉

の考え方や政策に共感していた模様。

六、七代将軍時に実質執政を行っていた間部詮房や新井白石の政策方針には否定的な考え。

五代将軍・綱吉には直接会う機会もあり、より好意的になったそう。

ただ、鷹狩を復活させたり自分でもやったりで腕も相当良かったとされ、必ずしも綱吉絶対主義ではなかったご様子。

武芸に関しても自ら実践するタイプで、結構なアクティブ派

勉強熱心で武芸を好み芸事にも明るく健康体だったことから、当時庶民の間で、

天下一

という言葉が流行るほど吉宗に対する期待が大きかった。

天下一
「天下一」の字の総画数が「8」で徳川家も8代将軍の時に最盛を迎える、との評判

吉宗自身も目安箱を設け庶民の意見を採り入れたり、小石川養成所を建てたりと庶民の立場に寄り添おうとするも、

衣・食・住の倹約を半ば強引に促したため、中期以降は庶民からの人気度は低かった。。

また、吉宗は一生を部屋住みとして終えてもおかしくない出自だったにもかかわらず、

  • 紀州藩主
  • 将軍職

それぞれの就任経緯があまりにも超棚ぼた的幸運が重なったこともあり、

歴史家
歴史家
吉宗か側近がくわだててた陰謀では…?

との見方も根強く残っています。

部屋住み
家督を継ぐ立場になく、養子にも出されず、独立もせず家に留まること

徳川吉宗の女性関係・色恋事情

お盛んな肉食系

女性事情

スポンサーリンク

将軍になる前の紀州時代は、相当な女好きで肉食系な暴れん坊(棒?)だったご様子の吉宗。

お出かけ途中、休憩がてらに寄った茶屋の娘に手を出したり、通りかかった農家で働く女性を気に入り側女そばめにしたり、ちょっとでも気に入ればところ構わず片っ端から手を出すのが吉宗流。

ストライクゾーンも広く、集められた側女の容姿や性格等は見事なまでにバラバラだったとか。

「覚えがある」

大岡忠相 肖像画
大岡忠相

吉宗将軍時代、TVドラマ「大岡越前」のモデルにもなった江戸町奉行・大岡忠相おおおかただすけの元に、

自分は将軍の子だ
お侍

と主張する者や母子が度々現れる。

素性を調べると違うと分かるも、訴え出てくる者の数が少なくなく、疑問を持った忠相が半ば冗談交じりに吉宗に話をしたところ、

徳川吉宗
吉宗
覚えがある!

と全く否定しなかったとか。

以後、訴え出た者の素性調査により時間を割く羽目になり、忠相の業務と心労が増えたそう。。

吉宗の性格や人柄が垣間見れるエピソード

エピソード

頭も良くキレ者で武芸に優れ芸術関連にも精通しており、それまでの将軍に比べると健康体ともはや完璧な将軍像とも感じられる吉宗。

そんな吉宗の性格や人柄が伺えるエピソードなどをいくつかご紹介。

幼いころからあった大器の片鱗

刀の鍔

吉宗がまだ幼名・源六と名乗っていた時こと。

紀州藩主で父・光貞が吉宗たち息子全員を集めて、

武士
この中から好きなものを持っていきなさい

と、刀のつばが大量に入った箱を差し出したそう。

他の兄弟がどれにしようかと鍔を見ている中、吉宗だけ全く動かず鍔にも手を触れる気配がなかった。

それを見た父・光貞が、

武士
なぜ選ばない?

と聞いたところ、吉宗、

徳川吉宗
吉宗
私は兄上達が選んだ後で箱ごと全て頂きとうございます

と返答。

これを聞いた父・光貞は

武士
年に似ず肝が太い!

と大いに喜び残った鍔を箱ごとそっくり吉宗に与えたそう。

さらに吉宗は父からもらった大量の鍔を自分の従事に分け与えたとか。

有言実行タイプ

日光社参

吉宗がまだ紀州にいて幼名・源六を名乗っていた時のこと。

外出時にたまたまた近くを大名行列の一行が通っていた。

それを見て、

徳川吉宗
吉宗
いつかあれぐらいの行列を引き連れてみたいものだな…

とつぶやいたそう。

時は流れ吉宗将軍期。

将軍就任時には火の車だった幕府の財政を倹約などで見事に立て直し、貯えができるまでに回復していた頃。

莫大な費用が掛かるとの理由から中止となっていた日光社参を、四代将軍・家綱以来約65年ぶりに復活させた。

依然として倹約が行われている中で吉宗が行った日光社参は、

  • 全行程:8泊9日
  • 総人数:約36万人
  • 馬数 :約32万頭

と大掛かりなもので、列の先頭が出発してから最後尾が出発し終えるまでに約10時間もかかったとか。

加えて、

  • 総費用:約22万両強
    200億円弱

ととてつもない規模の大行列だった。

幼き頃に見た大名行列を遥かに凌ぐ規模で行列を引き連れてみせた吉宗、どんな形であれ巡ってきたチャンスを逃さないとする一面が垣間見れるエピソード。

スポンサーリンク

「吉宗」という名前

「徳川綱吉 肖像画」
出典:徳川美術館
徳川綱吉

紀州藩主になるに伴い改名した際、かねてより尊敬の念があった五代将軍・綱吉にあやかって「吉」の字をつけたとされています。

「宗」は鎌倉幕府の八代執権・北条時宗から取ったとか。

吉宗の出自である紀州徳川家をゆくゆくは徳川宗家に組み込んでいくという意味合いから、
との説も。

好奇心旺盛で新しいもの好きな理論派

象

長崎にてオランダとのみ外交が許されていたご時世、オランダ船が持ち込む品々に関心が高かったとされる吉宗。

自身が好奇心の強い性格だったのもあり、多くを知っていく中で当時は日本で常識とされていたものが間違いだったことに多々気付かされたそう。

中でも医学を始めとした蘭学の必要性を自ら訴え、洋書の輸入をキリスト教関連以外の書物に限り解禁したことで以後蘭学ブームが巻き起こった。

慣習にとらわれず、論理的に良いと感じたものは率先して取り入れる柔軟性をお持ちだったご様子。

とは別に、文字や図柄でしか知らなかった象を好奇心が高まり自ら注文して輸入し、長崎から江戸まで歩いて運ばせたことで象ブームも席巻。

童心的な気持ちも忘れずお持ちだったそう。

ただ、吉宗自身は象を数回見たら飽きてしまったご様子で、その後の象の扱いには幕府として苦心した模様…。

絵画好き

鷹の水墨画

柔術や鷹狩などを自ら率先して行うなど割とアグレッシブな面もありつつ、絵画鑑賞や模写に打ち込むなど芸術面にも明るかったとされる吉宗。

自ら狩野派に師事を受け、国内のみならず中国の宋画の講師を招き入れるなど、なかなかなご熱心ぶりだったそう。

水墨画に関しては、淡墨でまず要所を描き、乾かないうちに濃墨を点じる「にじみ鷹」という技法を吉宗自ら編み出すほどだったとか。

実際に吉宗が描いたとされる
「野馬図」
野馬図 吉宗画出典:和歌山市立博物館

吉宗の人に対する接し方や考え方

救いの手

どんな地位に就いてもあまり奢ることなく人に対して親切だったとの逸話が多く残る吉宗。

そんな吉宗の人に対する接し方や考え方が伺えるエピソードを4つほど。

ケンカの仲裁

怒り

吉宗がまだ紀州で部屋住みだった青年期のこと。

お忍びで何人かの家臣と連れ立って街を歩いていたら、たまたま商人家の夫婦喧嘩に出くわす場面に。

ちょうど商人家の隣人が仲裁に入ろうとしたとこだったが、激怒していた商人は、

江戸人
殿様の言葉ならいざ知らず、隣人の言葉など聞けるかっ!

と隣人を罵ったのを吉宗も耳にしたそう。

翌日、吉宗は、

徳川吉宗
吉宗
殿様でなく殿様の四男坊の言葉では不足だろうが、喧嘩せず夫婦仲良くするように

と商人夫婦に伝えるよう家臣に伝言を遣わせた。

吉宗の言葉を聞いた商人夫婦は恐れ入ってその後仲良く暮らすようになったという。

メガネ
歴史家
「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど日常茶飯事だった喧嘩を嫌った吉宗らしさ

が伺えるエピソード。

飛鳥山、隅田川沿いの桜

飛鳥山の桜

江戸時代の公共事業として進められた、

  • 治水
  • 埋め立て
  • 町場の整備

などの一環で、当時上野にしかなかった桜の花見スポットを、

徳川吉宗
吉宗
もっとみんなが別の場所でも花見が楽しめるように

と、

  • 飛鳥山(東京・北区)
  • 隅田川沿い

などに桜の木を増やしたのは吉宗。

あぜ道での出来事

あぜ道

ある日吉宗が鷹狩に出かけた時のこと。

田んぼのあぜ道を歩いている最中に、肥料として置いていた糞桶があるのに気付かず、つまづいて桶をひっくり返してしまう。

その際に吉宗自身の服もちょっとだけ汚れてしまう事態に…。

服を着替えた吉宗は、

徳川吉宗
吉宗
この糞桶の持ち主をここに連れてこい

と家臣に命令。

事の次第を聞いた桶の持ち主の農民はすっかり青ざめ、家臣たちもどうなることかと心配しながら吉宗の元へ連れて行くと、

徳川吉宗
吉宗
お前は田を肥やし実を豊かにしょうと糞を買って苦労してわざわざここまで担いできたのに、わしが誤って無駄にしてしまった。

その代価としてわしの着ていたこの衣服をやろう。

と少し汚れはしたものの吉宗自身が着ていた服を桶の持ち主に渡した。

鷹狩時とはいえ将軍の着ている服は、農民からすれば到底手が届かないほど高額なもので、農民は恐れ多くて平伏したという。

物事の結果だけでなく、そこに至るまでの過程や人の気持ちを汲み取れる御仁だったことが伺えるエピソード。

美女は金が掛かる

小判

庶民にも家臣にも徹底した倹約策を行い、自らもなかなかな倹約ぶりだった吉宗。

倹約政策の1つとして大奥の人員大整理も敢行。

その際に、美女といわれる女性をことごとく解雇。

その理由を表向きは、

徳川吉宗
吉宗
美女はどこ行っても得するし働き口も縁談もあるだろう

とするも、

徳川吉宗
吉宗
美女は金が掛かる

から、と後日(大御所時代に)本音をぽろり。

吉宗陰謀説

灯り

紀州藩主・将軍職それぞれに就く際に、吉宗の他に有力な候補がいたにもかかわらず、相次いで7名も亡くなっていることから、

歴史家
歴史家
吉宗かその側近が暗殺を企てて実行したことで権力の座に登りつめたのでは?

との見方があります。

その推移をざっくりとご紹介。

紀州藩主になるまで

和歌山城

紀州藩主だった徳川光貞の四男として生まれ、特に養子にも出されず独立もせず家に留まる、いわゆる「部屋住み」で一生を終えても不思議ではない境遇だった吉宗。

特に光貞の長男で吉宗の兄でもある徳川綱教は、五代将軍・綱吉の娘(鶴姫)を奥さんに迎えていて、時期将軍候補の筆頭だった。

が、鶴姫が急逝し綱教も急な病に倒れる。

そのわずか後には藩主だった父・光貞も突然死。

次男は早世していたため三男が紀州藩主となるも、数ヶ月で亡くなってしまい、ある意味奇跡的に吉宗が紀州藩主に就任。

将軍就任まで

葵の御紋

七代将軍・家継の早世で跡取りもいなかったことから、将軍候補となる人材が選抜されることに。

この時筆頭だったのが、御三家の中で序列の強かった尾張徳川家。

当時の序列
尾張 > 紀州 > 水戸

ところが尾張徳川家でも突然の不幸が相次ぐ事態が…。

尾張藩主だった徳川吉通をはじめ、その弟や息子が次々に亡くなってしまい、尾張徳川家から将軍候補を出せないばかりか藩主もままならない状態に陥ります。

その結果、超棚ぼた的幸運で吉宗が八代将軍として江戸に迎えられることが決定。

このあまりにも強運ぶりに違和感を感じる歴史家も多く、吉宗陰謀説が根強く残っています。

御庭番の創設

手裏剣

紀州藩主時代に

  • 反逆者の取締り
  • 家臣の補佐

の役割で新たに創られた役職が「御庭番」。

吉宗は紀州藩主時代に御庭番を設置し、将軍となった際にも紀州から江戸に引き立て、江戸幕府政権下でも御庭番制度を採用していることから、

メガネ
歴史家
秘密裡に諜報活動を行った暗殺込みの隠密部隊だったのでは?

とする見方も。

豪傑気質か計算か?

お城

七代将軍・家継が子を残さず逝去されたことは、二代将軍・秀忠以降の男系子孫による直系血縁将軍が途絶えたことを意味していました。

吉宗は初となる御三家出の将軍ということとなり、これを良く思わないのが以前より江戸城に勤めていた家臣たち。

紀州藩主だった吉宗の下で働いていた家臣たちのほとんどがごっそり江戸城に移りこんでくると考えていた者も多く、

武士
自分たちの働き場所が、血縁もままならない将軍ごと外から来る輩に奪われる…

と疑念を抱いていたそう。

しかし、吉宗は側近中の側近数名や御庭番衆以外は、わずか40名程度のお世話役だけを従えて江戸城に入城。

しかもその40名弱は、吉宗のお気に入りを選びに選んだとかではなく、選んだ日がたまたま出勤日の者たちだったとか。

吉宗将軍就任以前から江戸城内で働いていた者たちはこのことに大変好感を抱き、吉宗や40名弱の家臣たちは喜んで迎え入れられたそう。

歴史家
歴史家
吉宗の豪胆な性格がそうさせた

のか、

自身の立場を理解した上で敢えてそうした措置をとった計算だった
メガネ
歴史家

か、ここでも歴史家の意見は分かれるところ。

備考と参照

  • この記事は2018年までに分かっている史料等や諸記事を元に書かれております。
  • 今後見つかるかもしれない史料等によっては、全く違う内容になる可能性がある旨ご了承くださいませ。

吉宗の次の代・前の代の将軍は…

参考文献など

  • 『徳川将軍列伝』
    著・北島正元
    出・秋田書店
  • 『徳川将軍家十五代のカルテ』
    著・篠田達明
    出・新潮新書
  • 『徳川名君名臣言行録』
    著・岡谷繁実、安藤英男
    出・新人物往来社
  • 『将軍の私生活』
    著・三田村鳶魚
    出・グーテンベルク21
  • 『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』
    著・鈴木尚
    出・東京大学出版会
  • 『徳川将軍家墓碑総覧』
    著・秋元茂陽
    出・星雲社
  • 『徳川吉宗』
    著・辻達也
    出・吉川弘文館
  • 『吉宗と享保の改革』
    著・大石学
    出・東京堂出版
  • 『鷹と将軍 徳川社会の贈答システム』
    著・岡崎寛徳
    出・講談社
  • 『将軍位を盗んだ男 吉宗の正体』
    著・若桜木虔
    出・文庫ぎんが堂
  • 『将軍と側近 室鳩巣の手紙を読む』
    著・福留真紀
    出・新潮新書

などなど他諸冊