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徳川慶喜の性格、特徴、趣味、嗜好や女性関係などの雑学的プロフィール

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徳川慶喜

試験にはちょっと出づらいし、おそらく仕事には役に立たないし、知ってても特に何かが変わるわけではないけど、いつかどこかで何かに役立つかもしれない息抜き専用雑学、

江戸幕府 第十五代将軍・徳川慶喜よしのぶ編。

徳川慶喜に関して分かってる性格、特徴、趣味、嗜好や女性関係にちょっとしたエピソードなどを雑学的プロフィールとして記載しております。

徳川慶喜の雑学的プロフィール

年代や数字に関して

  • 年代や星座等は基本的に新暦換算で記載しております。
  • 年数や年齢は代による暦の違いや数え年の違いから、出典により±1〜3年の誤差がある場合もございます。

徳川慶喜

人物

  • 生誕:1837年10月28日生
    旧暦:天保8年9月29日
  • 星座:さそり座
  • 身長:153〜156cm
    江戸時代の平均身長
    155〜160cm

家系

  • 氏族:水戸徳川家
  • 幼名:七郎麻呂
  • 父親:徳川斉昭(の七男)
  • 母親:有栖川宮織仁親王娘

将軍期間

奥方

子ども

晩年

徳川慶喜をざっとおさらい

徳川慶喜

徳川慶喜 肖像

  • 江戸幕府 最後の将軍
  • 慶応の改革
  • 二条城での大政奉還を奏上
  • 将軍として江戸城に入っていない唯一の将軍

などなど

慶喜将軍期の主な出来事

  • 倒幕の密勅
    1867(慶応3)年
  • 民衆による
    ええじゃないか
    騒動
    1867(慶応3)年頃
  • 明治天皇が御即位
    1868(慶応4)年
  • 王政復古の大号令
    1868(慶応4)年
  • 戊辰戦争が勃発
    1868(明治元)年〜
  • 明治維新のはじまり
    1868(明治元)年〜

などなど

慶喜将軍期の世界情勢

  • アメリカがロシアからアラスカの土地を買収
    1867(慶応3)年
  • ノーベル氏がダイナマイトを発明
    1867(慶応3)年
  • マルクス著
    本
    資本論
    が刊行
    1867(慶応3)年

などなど

徳川慶喜の性格、特徴、趣味、嗜好

文書

  • 文芸、武芸に精通
  • 学がある
  • 空気は読まない
  • 自分主義だけど評判を割と気にする
  • 家臣からは嫌われる
  • 女性からも嫌われる
  • 慶喜様けいきさまとして一部には好かれる
  • あだ名:豚一様
    肉が好きな
  • 手裏剣の腕は日本でもトップクラス
  • 弓道、カメラ、自転車、油絵、釣り、刺繍、他超多趣味

などなど

徳川慶喜の人物像

徳川慶喜

江戸幕府の将軍になる前から、将軍後見職として政務には積極的だった徳川慶喜。

結構我が強く、

武士
言うことがすぐ変わる

など政敵も多く、家臣からは不人気だった模様。

将軍就任時前から京都で朝廷とのやり取りに奔走していたことから、

歴史家
将軍として江戸城に入らなかった唯一の御仁

のため、大奥も未体験。

また、

江戸町娘
勝手ばかり言う

ため、女性からも人気はなかったご様子ながら、戊辰戦争後に静岡で隠棲いんせいする際には、20人近くの側女がいたとかいないとか。

時代が違えば、日本を代表する名君になる得る器

との呼び声もありますが、逆に

良くも悪くもズレていた?慶喜じゃなければ、当時の難世を乗り越えられなかった

という意見も多く、

明治期以降の日本の礎を築いた重要人物のひとり

という部分では一致。

余生は、

  • 弓道
  • 油絵
  • 狩猟
  • 打毬うちまり
  • 将棋
  • 刺繍
  • お菓子作り

などなど超多趣味。

しかもそのほとんどがプロ級の腕前だったそう。

中でも

専門家
手裏剣に関しては、日本トップクラスの実力だった

とのお墨付き。

徳川慶喜の女性関係・色恋事情

お奥に無縁だった唯一の将軍

女性事情

徳川慶喜は、

歴史家
将軍就任から大政奉還まで、政務でずっと京都にいた

ため、将軍となってからは江戸城に入っておりません

そのため

歴史家
成人した歴代徳川将軍の中で、大奥に入らなかった唯一の将軍

となっております。

が、大政奉還による将軍職の返上から戊辰戦争を経て政治からは離れ、静岡に隠棲することになった際には、

武士
20人近くの側女が一緒だった

とか。

実際に隠棲生活が始まるに辺り、側女を2人だけに絞ったそうで…。

ちょっと変わった隠棲生活

藁葺き

隠棲生活を始めるにあたり選んだ側女の2人は女同士で非常に仲が良く、産まれた子どももほぼ同数で、みんなで同じ家に住み

子供たちもどちらが自分の母親とは特に意識することなく仲良く暮らしていた

ご様子。

その甲斐あってか時代の流れか、歴代3位となる

  • 男児:10人
  • 女児:11人

の計21人と子沢山で、

歴史家
歴史家
徳川将軍歴代最長齢となる76歳

までその生涯を全うしております。

徳川慶喜の性格や人柄が垣間見れるエピソード

嫌な奴か、天才肌か

ベッド

小さい頃は結構寝相が悪かったそうな慶喜。

これを気にかけた父・徳川斉昭がある時、

徳川斉昭
七郎麻呂が寝る枕の両隣にカミソリを置いて寝相を改めさせろ

と、スパルタ的に寝相の改善をさせようと画策。

七郎麻呂
徳川慶喜の幼少名

いざ慶喜が床に就くと、侍女たちが慶喜の枕の両隣に本当にカミソリを置きました。

それを見ていた慶喜は、

徳川慶喜
どうせ私が寝入った後は(カミソリを)取り除くんだろう

と一言。

幼少の頃から人の心の裏を読んだり、ちょっと高をくくった態度をとることが多かったそう。

ちなみに、このことを聞いた父・斉昭は、

徳川斉昭
徳川斉昭
その利発さ、あっぱれ!

として、

徳川斉昭
徳川斉昭
これは英明な名将になる

と褒め称えたそう。

臆病者か、先見の明あるリーダーか

リーダー

現在の京都付近で起こった鳥羽・伏見の戦いでは、家臣たちに

徳川慶喜
たとえ周りの者が討たれて一人になったとしても最後まで戦い抜け!

と慶喜自ら鼓舞するものの、その夜には重臣何人かを騙すかたちで引き連れ戦場を後にし、江戸城へ向かってしまいました。

先の長州征伐でも自身の発言とは裏腹な行動で身を翻していることもあり、

他人を人とも思わぬ自己保身に長けた臆病者

とする見方と、大政奉還や江戸城無血開城を実現させたのは、

諸藩の非難や憤懣を一身に浴び、多くの人命に加え、混乱や諸外国の脅威から日本を救った優れたリーダー

だとする見方の両極端に分かれがち。

坂本龍馬渋沢栄一などは後者。

日本橋の揮毫文字

日本橋

現在も東京・中央区に掛かる日本橋。

その橋柱銘板の揮毫きごう文字は慶喜の直筆となっております。

慶喜直筆「日本橋」

慶喜直筆の「日本橋」の文字

揮毫きごう

毛筆で言葉や文章を書くこと。

格言や看板の文字を指す場合もあります。

以前は木造だった日本橋が、1911(明治44)年に現在の石橋へ建て替えられる際に、時の東京市長・尾崎行雄氏が、

尾崎行雄
江戸から東京へ戦火を交えず無血開城できたのはひとえに屈辱に耐え、負けを認めて恭順姿勢を貫いた慶喜公のおかげである。

いわば東京の一番の恩人にこそ揮毫を願うべきである。

との強い敬愛の念から慶喜に依頼したそう。

尾崎行雄も慶喜に対する考え方は坂本龍馬や渋沢栄一と同じでした。

ちなみに、現在でも見られる

日本橋

の揮毫文字は二代目で、初代は東京・墨田区にある向島百花園に石像として保存されております。

向島百花園の石像

向島百花園内にある石像

尾崎行雄に依頼され、徳川慶喜が書した「日本橋」の文字は、当時割と大きな話題となり橋の揮毫になる前に新聞に掲載されたそう。

すると、

人アイコン
日本橋の「本」の字がおかしい

といくつかの抗議が。

この時慶喜が書いた文字は、

の旧字体でした。

石像の「本」

向島百花園内にある石像の「夲」

抗議を聞いた慶喜が、

徳川慶喜
誤りとされるものを末代まで残すのは、私の本意ではない

と書き換えたものが今の日本橋の揮毫となっております。

ただ、お蔵入りになるはずだった「日夲橋」の文字が、なぜ石柱となり、なぜ向島百花園に残っているのかは謎。

勝海舟、大激怒

勝海舟

長州征伐の真っ最中だったタイミングで将軍職に就いた徳川慶喜。

将軍になる前から、

徳川慶喜
徳川慶喜
長州討つべし!

と自ら先頭に立っており、将軍職を継いでもその立場を推し進めていました。

が、長州藩・高杉晋作らの抵抗もあり、一度敗戦するとあえなく立場を軟化。

そこで

歴史家
休戦を持ち込もうと交渉役として長州に送り込まれたのが勝海舟

でした。

勝は奔走しながら何とか長州をなだめることに成功するも、この時同時に慶喜は裏で朝廷を取り込み

習字
長州解兵命令

を発する展開に。

憤っていた長州を何とか説き伏せた勝の努力が全くの水の泡だったばかりでなく、単なる時間稼ぎとして使われたことに勝は憤るも、この時はどうにか耐え忍びます。

少し時が流れ、鳥羽・伏見の戦いの時。

家臣たちに慶喜自ら戦えと命じながら自身はこっそり軍艦で江戸に脱出したことも響き、結果は幕府軍の敗北。

慶喜脱出

船で戦場を脱出し軍艦に乗り込む慶喜

出典:『十五代徳川慶喜公』

敗戦が分かっていた慶喜は、脱出時に乗っていた軍艦が江戸に着く場所に勝を呼びつけ、全く悪びれることなく再び勝に尻拭いを丸投げ。

さすがにこの時は

勝海舟
だから言わんこっちゃない!

あなたはこれから一体どうなさるおつもりか!

と慶喜に対してブチ切れ。

しかし慶喜は、

徳川慶喜
…なぜ自分が怒鳴られてるのか全く分からない
風のきょとんとした様子だったそう。

超多趣味な余生

箱

静岡での隠棲生活時には趣味を楽しみ、ご近所づきあいもよかったことなどから、

女中さん
ケイキ様

と親しまれたご様子。

そんな慶喜の趣味の数々の一端をご紹介。

慶喜の趣味:手裏剣

日本でも

人
トップクラスの実力

だったとされる慶喜の手裏剣術。

流派は

的(時に相手)にいかに早く打ち当てられるかを主とする流儀

人
知新流手裏剣

で、手裏剣は角型のものを使用していたそう。

角型手裏剣

慶喜も使ったとされる同型の手裏剣

慶喜の趣味:カメラ

慶喜が撮ったとされる写真慶喜撮影の写真

コンクールに何度か応募するも落選ばかりだったとか…。

下は写真撮影をしている慶喜の様子を撮ったもの。

慶喜の撮影風景徳川昭武撮影
出典:茨城県立歴史館蔵

慶喜の趣味:油絵

徳川慶喜作 油絵1

徳川慶喜作 油絵2

徳川慶喜作 油絵3

これらは全て慶喜が描いた絵。

慶喜の趣味:諸々

自転車に乗る徳川慶喜

自転車に乗る徳川慶喜

狩りをする徳川慶喜

狩りをする徳川慶喜

弓道をする徳川慶喜

弓道をする徳川慶喜

他にもまだまだ趣味の多かった徳川慶喜。

将軍職を退いた後、一時政界に戻るも余生は趣味を楽しんでいたご様子。

晩年の徳川慶喜

晩年とされる徳川慶喜の写真

将軍という過大なプレッシャーから離れたためか時代の流れか、はたまた、

歴史家
幕府を終わりにする際に、多くの犠牲を払ったことに対する慶喜なりのけじめだった

からか、享年76歳は歴代の徳川将軍家の中で最も長くその生涯を生きた人となりました。

備考と参照

  • この記事は2018年までに分かっている史料等や諸記事を元に書かれております。
  • 今後見つかるかもしれない史料等によっては、全く違う内容になる可能性がある旨ご了承くださいませ。

徳川慶喜の前の代の将軍

十四代将軍 徳川家茂 徳川家茂の性格、特徴、趣味、嗜好や女性関係などの雑学的プロフィール

参考文献など

  • 『徳川将軍列伝』
    著・北島正元
    出・秋田書店
  • 『徳川将軍家十五代のカルテ』
    著・篠田達明
    出・新潮新書
  • 『徳川十五代史』
    著・内藤耻叟
    出・新人物往来社
  • 『徳川名君名臣言行録』
    著・岡谷繁実、安藤英男
    出・新人物往来社
  • 『将軍の私生活』
    著・三田村鳶魚
    出・グーテンベルク21
  • 『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』
    著・鈴木尚
    出・東京大学出版会
  • 『徳川将軍家墓碑総覧』
    著・秋元茂陽
    出・星雲社
  • 『徳川慶喜公伝』
    著・渋沢栄一
    出・東洋文庫
  • 『最後の将軍』
    著・司馬遼太郎
    出・文春文庫
  • 『氷川清話』
    著・勝海舟
    出・角川文庫
  • 『将軍・殿様が撮った幕末明治』
    出・新人物往来社
  • 『徳川慶喜家の子ども部屋』
    著・榊原喜佐子
    出・角川文庫
  • 『徳川慶喜家にようこそ』
    著・徳川慶朝
    出・文春文庫
  • 『日本橋トリビア』
    出・日本橋菓房株式会社
    引・https://www.nihonbashi-kabou.co.jp/

などなど他諸冊

徳川将軍家のご参考までに

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