江戸幕府第4代将軍 徳川家綱に関して分かってる
を中心に記載しております。
知っていても特に何かが変わるわけではない…けど、いつかどこかで何かに役立つかもしれない息抜き専用雑学としてご認識いただければ幸いです。
記事の中身をざっと見
徳川家綱の性格や特徴
あだ名
「然様せい」様
割と内向的
温厚
脳に患いがあり身体が丈夫ではなかった?
家臣に恵まれる
絵画や釣りが趣味
人情味ある優しさを持つ御仁
など
徳川家綱の人物像を深掘り
先代で父・徳川家光の急逝もあり、徳川家綱が征夷大将軍を継いだのはわずか11歳の時。
若くして脳の病気を患っていたことと、将軍がまだ年少者であることから、施政関係は伯父さんである保科正之を始めとした重臣たちが執り行い、徳川家綱自身は
が決まり文句の然様せい様とあだ名されることに。。
また、約29年の長期政権ながら前期・後期とも重臣に恵まれたのもあり、徳川家綱自身は
模様。
ただ、将軍に就任して間もない頃に
と認識していたご様子で
と見る向きもあります。
それでも将軍としての評価は低めな徳川家綱ではありますが、
- 家臣のミスを庇う
- 明暦の大火の復興は庶民を思い率先して取り組む
など人情味溢れるエピソードが結構残っております。
徳川家綱の性格や人柄が垣間見れるエピソード
罪人を想う
徳川家綱がまだ将軍になる前で幼名・竹千代を名乗っていた頃、ある時流罪(=島流し)となった罪人の話を聞いた際に、
との感想を言ったそう。
その発言を聞いた家臣たちは、分からなかったか、関心がなかったか、知ってて敢えて言わなかったか、結局誰も答えませんでした。
それに対し家綱は
とさらなる言葉を加えます。
それを聞いた父であり将軍の徳川家光は大いに喜び、
と家臣に命じます。
徳川家綱の発言が元となり、以後ちゃんと管理して流人に対しても適切な食料が与えるようになったとされております。
仕置き始め
権力者による初めての執政
徳川家綱に対する沢庵和尚の印象
当時まだ5歳と若くして元服した徳川家綱。
その式典に居合わせていたのが大徳寺の僧であり
の生みの親である沢庵和尚。
大人でも退屈するような儀式の最中でも全く行儀悪くなることがなかった家綱を見て
と絶賛しております。
遠望鏡
出典:徳川美術館
将軍就任から間もない幼少期のころ、江戸城の天守閣へ登った際に家臣から
と星を見るのに便利な遠望鏡を勧められたそう。
それに対し家綱、
と言い、以降も遠望鏡を城下町を見るための道具としての使い方はしませんでした。
将軍となっても庶民のことや相手のことを思いやれる気持ちを絶えずお持ちだった様子が伺えるエピソード。
お吸い物の中の髪
徳川家綱が食事中にお吸い物を飲もうとしたある日のこと。
お椀に髪の毛が入っていることに気づいた家綱は黙ってその髪の毛を箸で摘み取り除きました。
が、見ていた配膳係が慌てて新しい物と交換しようとした際に
と給仕に付け加えました。
お椀を空にすることで普段おかわりする時と同じ様に見せ、誰の髪の毛だとしても誰も咎められる者が出ないようにした徳川家綱の心優しい配慮が伺えるエピソードとして残っております。
余談
父・徳川家光との性格対比も面白いお吸い物エピソード。
明暦の大火(振袖火事)を経て
明暦3年1月18日、城下のみならず江戸城天守閣まで焼け落ち、死者10万人以上とも言われる大火災
明暦の大火(振袖火事)
が発生しました。
新暦1657年3月2日
火事からの復旧に率先して動いたのが徳川家綱で、焼け落ちた天守閣の復旧よりも
させております。
また、大勢の死者が出てしまったのは、
- 水路が多い
- 街と街とを繋ぐ橋が少ない
- 狭い場所に人々が密集し過ぎて暮らしている
ため逃げ遅れてしまったのが主要因だと分析。
復興の際には各所に街と街を繋ぐ広い橋を多く造らせました。
この時通った橋のひとつが
で、今日でも当時とほぼ同じ広さで往来を繋いでおります。
明暦の大火の簡易概要
相撲が両国で栄えたのは…
明暦の大火の復興の一環として徳川家綱が造らせた両国橋。
火事などから町人が逃げられることを目的としていたため、
と呼ばれるほど当時にしては大きく広いものでした。
また、万が一の際に大勢が移動しやすいよう
されておりました。
ただ、例外的に
としたため、そこから家の基礎にあたる土俵が多く造られたことが両国近辺で相撲が栄えた一因とされております。
その名残から現在でも正式な土俵は
とされております。
徳川家綱の趣味:絵画
幼い頃より絵が好きで自分でも結構描いていた徳川家綱。
そんな家綱画伯の水墨画作品を年代順とされる並びで数点ご紹介。
余談
父・徳川家光も描いている「雄鶏図」。
徳川家綱の女性関係 色恋事情
子もなく史料も乏しい謎多き御仁
史料などから
ことは分かっているものの、
と見る向きも強く、家綱自身の嗜好等が分かる史料自体が乏しい謎多き御仁。
脳の疾患が影響してか40歳手前で急逝してしまい、家綱自身に子もいなかったため、弟び綱吉が形式的に家綱の養子となり、将軍職を継ぐこととなりました。
江戸時代において
次の将軍は先代将軍の子でなくてはならない
との取り決めがありました。
徳川家綱の雑学的プロフィール
人物
- 生誕
- 1641年9月7日
- 旧暦:寛永18年8月3日
- 星座
- おとめ座
- 身長
- 約158cm
江戸時代の平均身長
155〜160cm
家系
- 血筋
- 徳川将軍家
- 幼名
- 竹千代
- 父親
- 徳川家光
- の長男
- 母親
- お楽の方
将軍期間
- 就任時齢
- 11歳
- 在任期間
- 1651年〜1680年
- 慶安4年8月18日〜
延宝8年5月8日 - 在任年数
- 約28年9ヶ月
- 歴代順位
- 3位
- 徳川将軍家 在任期間ランキング
奥方
- 奥方数
- 3人
- 正室:1人
- 側室:2人
- 歴代奥方数
- 10位
- 徳川将軍家 奥方数ランキング
子ども
- 子宝数
- 0人
晩年
- 享年
- 38歳
- 死因
- 脳膜炎 or 心臓発作
- 歴代長寿ランク
- 12位
- 徳川将軍家 長寿ランキング
徳川家綱将軍期の主な出来事
徳川家綱将軍期の主な施策
約29年間の長期安定政権
文治政治各制度、法律等の強化と秩序の安定化
寛文の二大美事殉死の禁止大名証人制の廃止
政務のほとんどは伯父の保科正之らが執行
など
国内の主な施策
明暦の大火1657(明暦3)年
箱根用水が完成1670(寛文10)年
河村瑞賢による航路開拓西回り・東回り航路1671(寛文11)年〜
など
徳川家綱将軍期の世界情勢
イギリスがアメリカのニューアムステルダムを占領し、同地を
ニューヨークと改名1664(寛文4)年
イギリスに
グリニッジ天文台が完成1675(延宝3)年
など
徳川家綱の次代将軍、先代将軍
当記事の参照や備考
一部個別に記載
掲載内容に関して
年代や星座等は基本的に新暦換算で記載しております。
年数や年齢は代による暦の違いや数え年の違いから、出典により±1〜3年の誤差がある場合もございます。
掲載画像はあくまで参考イメージとしてご覧くださいませ。
当記事は2022年末までに分かっている史料等や諸記事を元に記載しております。
今後見つかるかもしれない史料等によっては、全く違う内容になる可能性がある旨ご了承くださいませ。
参考文献など
- 『徳川将軍列伝』著:北島正元版:秋田書店,1989/12/1
- 『徳川将軍家十五代のカルテ』著:篠田達明版:新潮新書,2005/5/16
- 『徳川十五代史』著:内藤耻叟版:新人物往来社,1985/11/1
- 『徳川名君名臣言行録』著:岡谷繁実、安藤英男版:新人物往来社,1981/1/1
- 『将軍の私生活』著:三田村鳶魚版:グーテンベルク21,2016/1/15
- 『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』著:鈴木尚版:東京大学出版会,1985/12/1
- 『徳川将軍家墓碑総覧』著:秋元茂陽版:星雲社,2008/1/10
- 『武野燭談』著:木村高敦版:人物往来社,1967
- 名君の碑:保科正之の生涯』著:中村彰彦版:文藝春秋,2001/10/10
などなど他諸冊
徳川将軍家のご参考までに
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10〜13歳を過ぎた頃に通過儀礼のひとつとして行われることが多い慣習でした。