試験にはちょっと出づらいし、おそらく仕事には役に立たないし、知ってても特に何かが変わるわけではないけど、いつかどこかで何かに役立つかもしれない息抜き専用雑学、
江戸幕府 第五代将軍・徳川綱吉編。
徳川綱吉に関して分かってる性格、特徴、趣味、嗜好や女性関係にちょっとしたエピソードなどを雑学的プロフィールとして記載しております。
記事の中身をざっと見
徳川綱吉の雑学的プロフィール
年代や数字に関して
- 年代や星座等は基本的に新暦換算で記載しております。
- 年数や年齢は代による暦の違いや数え年の違いから、出典により±1〜3年の誤差がある場合もございます。
人物
- 生誕:1646年2月23日生
旧暦:正保3年1月8日 - 星座:うお座
- 身長:124cm?江戸時代の平均身長155〜160cm
家系
- 氏族:館林徳川家
- 幼名:徳松
- 父親:徳川家光(の四男)
- 母親:桂昌院
将軍期間
- 就任時齢:35歳
- 在任期間:1680年〜1709年
- 在任年数:約28年5ヶ月
- 歴代順位:4位
参考 徳川将軍家 在任期間ランキングダレトク雑学トリビア
奥方
- 奥方数:4人
- 正室:1人
- 側室:3人
- 歴代奥方数:8位
参考 徳川将軍家 奥方数ランキングダレトク雑学トリビア
子ども
- 子宝数:2人
- 男の子:1人
- 女の子:3人
- 歴代子宝数:11位
参考 徳川将軍家 子宝数ランキングダレトク雑学トリビア
晩年
- 享年:62歳江戸時代の平均寿命45〜50歳
- 死因:麻疹 または窒息死説
- 歴代長寿ランク:5位
参考 徳川将軍家 長寿ランキングダレトク雑学トリビア
徳川綱吉をざっとおさらい

徳川綱吉 肖像画
- 忠義、礼儀を主とした法整備の強化
- 庶民第一主義の「天和の治」
:初期 - 生類憐れみの令の「犬公方」
:後期
などなど
綱吉将軍期の主な出来事
- 元禄文化期
- 赤穂浪士事件
(≒ 忠臣蔵)
:1701(元禄14)年 - 元禄小判の発行
:貨幣の改鋳 - 松尾芭蕉が刊行奥の細道
:1702(元禄15)年 - 富士山大噴火など天変地異が多発
:1707(宝永4)年〜
などなど
綱吉将軍期の世界情勢
- フランスにヴェルサイユ宮殿が完成
:1682(天和2)年 - アイザック・ニュートン氏が万有引力
を記した
を発表プリンキピア
:1687(貞享4)年
などなど
徳川綱吉の性格、特徴、趣味、嗜好
- 幼少期より聡明
- 相当な勉強家
- (宗派問わず)宗教大好き
- 儒教の教えに大共感
- 戦、争いごと嫌い
- 根は実直
- 頑固
- ちょっと偏屈で癇癪持ち
- 説明下手
- 他人の気持ちを推し量れない
- 有言実行タイプ
- 身長コンプレックス
- 能が大好きで芸術にも明るかった
- 女性関係、男性関係も明るかった
- 「水戸黄門」の徳川光圀と仲が悪い
などなど
徳川綱吉の人物像
身長が130cmに満たず、相当な身長コンプレックスがあったとされる綱吉。
部類の勉強熱心で、
- 政治
- 経済
- 文化
- 宗教
など多方面に精通していたそう。
が故、自分の考えに固執する傾向もあり、結構意固地な面も。
時代劇ドラマ

のモデルとなった徳川光圀とは仲が悪く、光圀が編纂した『大日本史』の中で綱吉は結構ボロカスにこき下ろされています。
また、いくつか候補がある中で、
の常連となっている

を発したことなどから、徳川家公式記録の『徳川実紀』までも

的な表記がある影響もあってか、割りと悪評高い将軍とされております。
しかし、近年の研究では

と見る歴史家は多め。
実際に、将軍就任初期の頃には
と称されるほど庶民第一の政策を展開し、割と庶民からも慕われていたご様子。
が、綱吉自身の考える基準での成果がなかなか出ず、
- 人の気持ちに寄り添うことに不得手
- 頑固な性格
- 自身の思いを説明するのが下手
だったことなども相まって、何かと誤解され策に固執していき、徐々に不人気になっていったのも確か。
また、綱吉は

など、結構お硬い政策を展開していたのとは反面、色恋模様はざっくばらんで緩くオープンだったご様子。
徳川綱吉の女性関係・色恋事情
男女合わせて延べ130人以上の経験人数
父・家光が30代半ばまで男色一辺倒だったのに対し、綱吉の場合ははじめから男女どちらもお好きだった模様。
女性の場合、女中はもちろん家臣の娘や結婚したての新妻でも気に入った女性なら見境なく手を出し、

のが綱吉流。
男の場合は美少年好きで、家臣に引き立てたり江戸城内に住まわせたりと、なかなかのご熱心ぶりだったとか。
そんな綱吉の色恋事情エピソードを2つほど。
ちょっと変わった?嗜好の御仁
色恋関係ではちょっと変わったプレイがお好みだったようで、
- 家臣の妻に手を出す
- 家臣の妻とその妻の母まで含めて同時に相手させる
- 所構わず女中複数人と同時にことに至る
など、ちょっと普通ではないのがお好みだったご様子。
男性版「大奥」をつくる
芸事にも詳しかった綱吉は、自分のお気に入りの歌舞伎役者や小姓たちを江戸城内に住まわせ

という名目の部屋を新設し、大勢の美少年たちを囲っていたそう。
時には10人近くの男たちと1日中部屋に籠もり、文字通り精を出していたご様子。
割と複数でのお戯れを好んだ傾向があり、綱吉と関係を持った相手は男女合わせて

だったとも目されております。
小ネタ
柳沢吉保
柳沢吉保 肖像画
出典:絹本著色 一蓮寺蔵
綱吉の側近として活躍する柳沢吉保は、館林時代から文字通りいろんな寵愛を受けた人物。
綱吉の特にお気に入りだったようで、柳沢吉保自身は

など、異例中の異例となる出世を遂げております。
将軍の側に仕え、将軍と老中との間を取り次ぐ役目を担った幕臣。

徳川綱吉の性格や人柄が垣間見れるエピソード
武芸に全く興味なし
綱吉がまだ将軍になる前のこと。
ある日、長兄であり時の第四代将軍・徳川家綱から

と、綱重(次兄)と綱吉それぞれに馬が贈られました。
綱重は馬術の鍛錬に励むも、綱吉は馬の絵を描いてばかりで馬術には一向に興味を示さなかったそう。
馬術よりも、
- 絵を描くこと
- 馬の走り方
- 馬が速く走れる脚の動かし方
といった方に関心がおありだったご様子。
七五三を広めたきっかけ
今日でも行われている七五三は、元々貴族の中だけの慣例行事でした。
その七五三が一般に広がったのは、綱吉が

のがきっかけとされております。
このことは、綱吉が
- 子を大事に想っていたこと
- 一般市民から(最初の方は)割と慕われていたこと
が伺えるエピソードとされております。
儒学が大好き
子を大事に想っていた綱吉。
この考えは儒学の教えからくるところが多く、将軍として

と考え、施政執り行っていたと目されております。
中国古代の儒家思想を基本にした学問。
孔子の唱えた倫理政治規範を体系化したもので、
- 忠義
:主人に対して - 孝行
:親に対して - 仁
:人に対する優しさ - 礼節
:秩序を重んじる心
などを説いた「四書五経」としてまとめられる経典などを学び活かす教え。
そんな綱吉が思い描いていた理想の一旦が垣間見れる史料が残っています。
綱吉の理想:誠実
綱吉が自ら書き柳沢吉保に贈ったとされる書で、
また、添えられた文も含めてこの書には、
との考えが込められております。
庶民を含めて、

だと解釈されております。
綱吉の理想:思無邪
出典:徳川記念財団
綱吉が晩年に書いたとされる自筆の書。
と読み、
との考えを書き記したもので、将軍職にあった綱吉が

だとされております。
気難しい性格?
そんな自らの理想とする社会造りを目指していた綱吉ですが、ちょっと気難しい?一面も。
綱吉が将軍に就任して1年が経った頃のこと。
将軍就任1周年は前将軍であり兄でもあった家綱の1周忌でもあり、綱吉自身は兄の1周忌法要を

と考えていたそう。
いざ法要のため上野・寛永寺に向かう道中、いきなり諸々を金で飾り派手な衣装で強烈な香を焚いて綱吉を出迎える団体が登場。
将軍就任1周期を通例的に華やかに祝おうとしたとある豪商の心遣いであり、綱吉自身の
- 法要は厳かに執り行いたい
- 華美な振る舞いは控えるように
といった思いは通達していなかったにもかかわらず、この派手な演出に綱吉は大激怒。
豪商の私財を没収して江戸から追放してしまうことに…。
こうした自分の意図を伝えないのに結果に怒る振る舞いは

そう。
徳川綱吉は無能な暗君…?
と揶揄されたり、徳川家公式記録である『徳川実紀』にも

的な表記があったりして割と評判の宜しくない徳川綱吉。
ただ、将軍就任当初は、後に「元和の治」と称されるほどの善政を行っていました。
そんな良い面?を綱吉の考えなどと合わせていくつかご紹介。
綱吉の考え:とにかく人が大事!
幼少期から勉強熱心で割と広く深い政治的見識を持っていたとされる綱吉。
中でも
と説く儒学の教えの中に自分の理想を見出していたご様子。
それまでは単に
- 年貢負担者
- 労働人足
として捉えられがちだった庶民を、

との通達を発し、

として施政を行うべく変革開始。
綱吉の考え:悪は滅すべし
当時、幕府の目の行き届かないところで庶民から厳しい年貢などを強要し、
と呼ばれるような、立場を利用し自身の私腹を肥やしていた者も多くいました。

とする儒学の教えに反した悪代官たちを綱吉自ら根絶しております。
- 名家の出の者だろうが、
- 数万石の大名だろうが、
- 同じ徳川家の身内であっても、
血縁や身分や立場も一切関係なく徹底した処罰を断行。
こうした徹底した断行は、

と見る向きも加味され、この時の綱吉は庶民からも結構な人気者になっております。
綱吉の考え:徹底した無駄の排除
悪代官の根絶を継続する一方で、徳川将軍家に関する数々の経費削減も断行。
- 籠や船などの簡素化、廃棄
:維持費削減 - 将軍家先祖参拝の廃止
:経費削減 - 鷹狩の廃止
:周辺準備等の人足負担軽減
などなども行っております。
これらの削減は、

したことにもなりました。
綱吉の考え:「我が道行くよ」宣言
綱吉にとって儒学の教えが基本であり、それまでの悪しき慣習と感じたものは次々と撤廃・廃止していくも、そのあまりの断行ぶりに周りの家臣たちは度々冷や汗をかくことに。
ある時家臣が綱吉に断行具合を抑えるように提言したところ、

よってこれまでの将軍の先例に従うつもりはない。
と一蹴。
自分の理想の実現のためには過去の先例等に縛られず、すべきことをすると宣言しました。
先代将軍が実父ではないこと。
綱吉にとって先代将軍・家綱は実兄であり、実父は家光。
当時は将軍の嫡男だけが将軍職の継承を許されていた慣習がありました。
が、家綱に子がなく、家綱の死後に急遽家綱の養子となって将軍職に就いた経緯のことを指しています。
こうしたことが庶民からも非常に好意的に受け止められ、綱吉自身、就任当初は人気の高い将軍として大いに期待されていたそう。
自分が好きなものを強要?するクセが…
ただ、綱吉には

そうで…。
能が大好きだった綱吉は、家臣へのご褒美として
- 自ら能を舞う
- (家臣へのご褒美なのに)家臣にも能を強引に演じさる
ことが度々あったそう。
また、傾倒していた儒学に関しては、
- 儒学の本を家臣全員に携帯させる
- 年始の仕事始めを儒学の講義に変更する
- 家臣の給与を綱吉自ら読み聞かせる儒学の講義に変更する
と、ちょっと変わった?思考の持ち主だった模様。
生類憐れみの令
そんな考え方の持ち主である綱吉が発したのが

でした。
当時はまだ武士の権力的なものが庶民間では強く、
- 切捨御免
≒ 無礼討ち武士に認められていた人斬りの特権 - 試し斬り新刀や研いだ刀の切れ味を人で試す行為
が広く蔓延しており、何の罪のない一庶民が平気で命を落とすことがまかり通っていた時代でした。
また、生活苦や面倒苦などから、
- 捨て子生まれたばかりの赤子を寺や野外に置き去りにする行為
- 捨て老人年老いた親を山や野外に置き去りにする行為
- 捨て病人病などで動けなくなった者を山や野外に置き去りにする行為
なども当たり前のように多かった時代。。
そんな世の中を変えるべく、儒学の教えに習って

命を大事にしない行為はもってのほかだ!
と出されたのが本来の生類憐れみの令の意義で、いわば
の先駆けとも言える法でした。
生類憐れみの令を発することで

こととなりますが…
そのやり方がいきなり厳し過ぎたのが残念な部分であり…。
厳しすぎた?生類憐れみの令
将軍就任当初から断行していた武家や大名の統制がある程度の成果を出していたことも手伝ってか、同じ感じで庶民の意識改革を断行しようとした綱吉。
本来は、
- 豪華な服や家の禁止
- 肉食の禁止
- 飲酒制限
- 食べるものの管理
など、庶民の生活までもを厳しく統制していくことに。
法令を発した綱吉自身の、
- 意図や経緯説明が曖昧
- 抽象的すぎて策だけを施した
ことなどから当然?成果はほとんど上がらず…。
成果の上がらないことが綱吉を苛立たせていき、その苛立ちから次々と規制を増やしてはより厳しく管理していくという悪循環に陥る羽目になりました。
生類憐れみの令の内容と経緯
綱吉主導の下、約24年間で130回以上も改編され続けた法令の総称。
基本的には
という法律。
ただ、その範囲が
- 犬
- 猫
- 鳥
- 馬
- 虫
- 魚
など広く、内容も
- どんな小さな虫でも殺生したら罰則
- 生き物が食べ物や水を欲してるのに与えなかったら罰則
- 犬や猫のケンカを見かけたら触れずに仲裁すること
- もし仲裁しようと触れたら罰則
などなど、うるさい感じに次々とこと細かい取り決めがどんどんに増えていきました。
ちょっと視点を変えれば、
とも言えますが、成果が出ず規制を次々と増やすていく中で、
- 奉行所による町人取締の強化
- 動物をいじめてた者を見つけ通報したら賞金
などのお触れも増えていき、また、お触れに反する者には、
- 切腹
- 打首
- 流罪
- 領地没収
といったような罰則が実際に行われていたこともあって
- 監視社会
- 恐怖政治
といった側面が目立ち始め、その方針や政策は庶民には到底受け入れがたいものとなっていきました。
加えて、特に数が多かった犬に関しては、
- 犬専用の広大な施設を建設
:東京・中野
:東京ドーム20個分相当の広さ - 貧しい庶民よりも豪華な食事を与える
- 管理費は庶民の年貢から
など、本末転倒な施策が繰り返されていくこととなり…。
庶民の不満は当然積もっていき、綱吉自身も戌年だったことから
- お犬さま
- 征夷犬将軍
- 犬公方
などと当時から揶揄されております。
このような経緯から諸説ある
として真っ先に挙がるのが

となっております…。
余談
生類憐れみの令の功績?
井原西鶴 肖像画
何かと悪法名高い生類憐れみの令ではありますが、実際にこの法令が出たことで当時の世相が良く変わったと分かる史料をひとつ。
浮世草子と人形浄瑠璃の作者であり俳諧師でもあった井原西鶴が、生類憐れみの令が出る前の1682年に出した

の中で、
好色一代男
という描写が当たり前のように描かれており、当時のご時世的に
- 子捨てが多かったこと
- 子どもを捨てることに対して罪の意識が低かったこと
が伺えます。
が、それから約10年後、最初の生類憐れみの令が出されて約6年後に当たる1692年に出した

では、
世間胸算用
という描写があり、子捨てに対する認識が変わっていることが伺えます。
とは言え、庶民の意識がより良く変わり始めていたことと、庶民の綱吉に対する評価はまた別のお話で…。
徳川綱吉に対する当時の評判
赤穂事件
出典:歌川国芳
「誠忠義士聞書之内 討入本望之図」
元禄14年3月14日、江戸城松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介を斬りつけるという刃傷事件が発生。
この時綱吉は、江戸城内にて高貴公家を接待しており、事件を知るや否や浅野内匠頭を切腹に処しました。
その後、浅野内匠頭に仕えていた家臣たち47人が亡き主君の仇を討つべく吉良邸へ押入り、吉良上野介を殺害。
これを綱吉が知ると、討ち入りをした浅野家家臣47人全員に対して再び切腹命令を出しました。
時代劇にもよく取り上げられる
です。
綱吉としては自身の作った社会的ルールに則り当然の処罰を降すものの、この一連の騒動が庶民の間に広まると、

と綱吉の決定に猛反発。

こととなりました。
相次いだ天変地異
綱吉治世の晩年、日本全国で火事や地震などの天変地異が相次で発生。
分かっているだけでも、
- 元禄大地震
:関東
:1703(元禄16)年 - 宝永の巨大地震
:東海
:1707(宝永4)年 - 富士山が噴火
:東海
:1707(宝永4)年 - 宝永の大火
:京都
:1708(宝永5)年
などなど立て続けに大災害が起こっており、被害も尋常ではなかったそう…。
綱吉自身はこれらの災害に対して率先して被災者の救済支援を行うも、当時はまだ地震や噴火の原因が科学的にも解明されてない時代、

とする考えや信仰が根強く、綱吉に対する庶民の評価も

徳川綱吉に対する人物評価
ケンペル著『日本誌』には…
ドイツ人医師で『日本誌』を著し、欧州に当時の日本という国を伝えたケンペルは、実際に綱吉に謁見したときの様子を、

と評しております。
父・徳川家光は…
幼少期より勉強熱心で、家光の6人いる子どもの中でも抜きに出て聡明だったとされる綱吉。
そんな綱吉を見て、父・家光は、

ただ、その才能に任せて自分の思いの通りに行動してたら、思いのほか災いを引き起こすかもしれない…
と懸念していたそう。
図らずもその懸念は歴史的に見ても的中してしまうことになりました…。
備考と参照
- この記事は2018年までに分かっている史料等や諸記事を元に書かれております。
- 今後見つかるかもしれない史料等によっては、全く違う内容になる可能性がある旨ご了承くださいませ。
徳川綱吉の次の代・前の代の将軍
参考文献など
- 『徳川将軍列伝』
著・北島正元
出・秋田書店 - 『徳川将軍家十五代のカルテ』
著・篠田達明
出・新潮新書 - 『徳川十五代史』
著・内藤耻叟
出・新人物往来社 - 『徳川名君名臣言行録』
著・岡谷繁実、安藤英男
出・新人物往来社 - 『将軍の私生活』
著・三田村鳶魚
出・グーテンベルク21 - 『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』
著・鈴木尚
出・東京大学出版会 - 『徳川将軍家墓碑総覧』
著・秋元茂陽
出・星雲社 - 『大日本史』
著・徳川光圀 - 『犬と鷹の江戸時代 “犬公方”綱吉と“鷹将軍”吉宗』
著・根崎光男
出・吉川弘文館 - 『生類憐みの世界』
著・根崎光男
出・同成社 - 『徳川綱吉と元禄時代』
著・桑田忠親
出・秋田書店 - 『黄門さまと犬公方』
著・山室恭子
出・文藝春秋 - 『徳川綱吉 犬を愛護した江戸幕府五代将軍』
著・福田千鶴
出・山川出版社
などなど他諸冊
徳川将軍家のご参考までに






